ミステリー・サークルの真相
ミステリー・サークルのはじまり
20世紀後半を迎えて、世界で多発した、おもに麦畑に描かれる幾何学模様の絵柄、ミステリー・サークル。一時期は、イギリスの巨石文明の跡地付近の麦畑を中心に頻出したこともありましたが、その後、世界各地で、確認されるようになりました。
実際に足を運んで見に行くことはできなくても(上空から出なければ、図形や模様が正確に見て取れないからです)、最近ではインターネットの爆発的な普及によって、かんたんに見ることができるようになりました。
ミステリー・サークルは、善意の地球外生命体が作ったものなのか
1990年代、海外の自称芸術家のグループが、ミステリー・サークルを制作したのは自分たちだ、と名乗りを上げました。木の板で作った簡単な道具で、麦を踏み倒していったとして、実演までされていましたが、上空から見て、どこか不自然で手作り感が出ていて、それまで公開されてきたいくつかのそれとは明らかに性質を異にするものでした。
しかし、真偽の程は別としても、この事件のおかげで、世界中が「ミステリー・サークル」を認識してくれたことは事実でした。
しかし、それですべてを説明できるものなのかどうか、物議を醸し出すことになりました。
単純に、次のような疑問が生じます。
- ・巨大な絵柄を短時間で作れるのか
- ・深夜に明かりのないところで、あるいは雨降りの悪条件下で作業できるのか
- ・世界中を飛び回って、報酬もなしに制作するのか
たしかにいくつかのタイプのミステリー・サークルは、人力で作ることが可能でしょう。ですが、目を見張るばかりの美しい絵柄、独特で正確無比なシンメトリーの構造のすべてを、人力で制作したと考えるのは難しいのではないでしょうか。
気象による自然発生説
大気の気流が地表に作用して、作物が倒れて円形の絵柄ができあがる、といった説は以前からありました。
しかし、単純な円形や正方形にとどまらない、複雑怪奇な図形のかずかずが登場するにつれ、そのような説を受け入れる土台そのものが消失していきました。
闇の存在によるものか
高度なテクノロジーを擁する、闇の存在があるとして、かれらがミステリー・サークルを作る可能性はあるでしょうか?
かりの話として、もしそのようなことをしたら、地球人類の覚醒が進み、闇の存在の存立基盤が失せてしまいます。見た瞬間に、悪意を感じ取るような絵柄の模様は、見たことがありません。美しい模様をわざわざ作って、目覚めてほしくない人類を無知蒙昧から揺り起こしたりはしないでしょう。
よって、闇の存在による行為とは考えにくいと思われます。
ミステリー・サークルという呼び名への疑問
ときが経つにつれ、ミステリー・サークルという呼び名に対して、違和感を抱く傾向が現れました。
「ミステリー」という部分は、だれが、いつ、何の目的で作ったかがわからないために「ミステリー」なのであり、地球外生命体からのメッセージではないかとの憶測が流れ、それが一般化するにつれ、「ミステリー」感が薄らいでいきます。
ミステリー・サークルの解釈
これまで、科学者、UFO研究家、一般人と、多くの方が、ミステリー・サークルについて独自の解釈をされてきました。
しかし、明確なメッセージが、地球の言語で図柄に示されることは、まず、ありません。どの方が当たっているかを比較検討するのは無意味です。あくまでも、そういう受け取り方もあるのか、と捉えたいところです。
そのため、左脳よりも、右脳を活性化させて、論理よりも直感で受け入れるのがよいでしょう。これが地球外生命体の仕業であると仮定したら、地球人全員に論理で解釈を求めるより、絵柄を直感で見て、心に溶け込むように工夫するでしょう。そして、インターネットが普及した時代を見計らって、その高度なテクノロジーを投入したわけです。
(ここでは、写真は割愛しますが、興味のある方はインターネットや書籍などでご覧ください。この世のものとは思えない美しさに、圧倒されるでしょう。そこから、神聖なインスピレーションを感じ取ってください。)
【まとめ】
2012年を過ぎた頃から、ミステリー・サークルの出現頻度はやや落ちてきているようです。
その理由は、ブームが去った、というようなものではなく、進化=次元上昇という概念が一般社会に定着してきたために、善意ある地球外生命体=宇宙連合が、地球人類に対する過度な干渉を控えているからだと考えられます。
地球にかかわりのある地球外生命体に対して依頼心にあふれた状態が続くようでは、地球人の心理的な成長はおぼつかない、ということをわたしたちに気付かせたいのです。
そして、2020年時点の地球人類の現在地点からすると、わざわざ麦畑に宇宙存在がシンボルを描かなくても、あらゆる日常の場面で、宇宙からのシグナルを感じ取る感受性が涵養されてきたように思えます。
これからさらに、それを“常識的な”世界に馴染ませていく地道な作業を、わたしたち市民はひたすら続けるのです。