【スピリチュアル】自己と世界を往来して、自分自身を知る
- 【スピリチュアル】自己と世界を往来して、自分自身を知る
- 地下室から出ない人を想定してみる
- 瞑想も、もちろん利用する
- 職場のパワハラ発言は、無視する!!
- 自然の内部に打ち解けて、自我を感じる重要性
- 人間だけの世界で、二元論を論じる危険性
灯台下暗し、とはよく耳にしますけれども、ほんとうに、人間は、人生の意義や、自分自身とは何かということについて、あまりにも知らなさすぎるのではないでしょうか?
自分自身について、歴史的に有名な言葉としては、つぎの2つが挙げられるでしょう。
1.
古代ギリシアのソクラテス(紀元前470-同399)は、戦士でもあり、思想家でもありました。
彼は、「知らないと言うことをまず知ることが大切(いわゆる「無知の知」)である」とする出発点から、霊魂不滅説まで、幅広く議論の対象としました。いずれも自身の著作ではなく、弟子のプラトンがおもに生前のソクラテスの言動を著作としてまとめた作品として残されています。
デルフォイの神殿に刻まれた神託に感動したソクラテスの、一連の議論の基底に流れる「汝自身を知れ」という思想は、現代のわれわれにとって、約2500年もの長きにわたって続く、謎解きのように響いてきます。
ちなみに、これは、先述したとおり、ソクラテスが語ったというよりも、神殿の言葉に感動して座右の銘にしていたというのが実態のようです。
ソクラテスの論法では、必ずと言っていいほど論争している相手に赤恥をかかせるため、彼には多くの敵が存在しました。けっして罵声を浴びせるようなことをせずに、相手は何かを知っているようでいて、何も知らないという痛恨の事実を思い知らされるためでした。彼らはいつも、ソクラテスとの議論の途中で、自身の無知に気づかされてしまうゆえに、ソクラテスを敵をして認識してしまうのでした。
しかし、わたしたちが真実に近づくには、やはり、自身の虚飾の仮面を剥ぎ取っていかなければ(それも、一枚とは限りません)ならないのですから、ソクラテスの採った方法は、歴史的にも正しかったと言えるでしょう。また、多くの彼の同時代人にとっても、そのような反応しか示せなかったのも、致し方のないところです。2500年経ったいまでさえ、ソクラテスを苦しめたソフィスト(詭弁を弄する者)たちの末裔のような人間が、まだ多く存在する始末ですから。
そして、最後は、敵たちの陰謀によって、ソクラテスは若者たちを惑わせた罪を着せられ、毒杯によって処刑されることになります。ソクラテスの行いは実際には罪でも何でもなかったのですが、政治犯・思想犯のような扱いとして処されたのです。
このとき、実は、弟子たちの協力により牢番を買収して逃げることもできた状況にもかかわらず、そして、実際に一部の弟子たちは、ソクラテスを逃がす手はずを準備していたのでしたが、それでもなお、ソクラテスは「愛する祖国のきまりに従う」と主張し、処刑を受け入れたのでした(その詳細は、プラトン著『ソクラテスの弁明』のなかに、詳細に描かれています)。
しかし、それと引きかえに、ソクラテスの人としてのあり方は永遠に近い賞賛を得ることになり、今日(こんにち)のわたしたちが知るところになったわけです。
2.
これは、フランスの思想家として知られる、モンテーニュ(1533-1592)の『エセー(随想録)』にしばしば現われる表現です。
フランス語では、「ク・セ・ジュ」と表現され、日本語訳では、「われ何をか知る」、つまり、「わたしは、いったい何を知っているのか?」という反語的な言い回しで、人間について、われわれは知っているようで知らないことばかりであり、謙虚に、人間や社会を観察し、学んでいかなくては精神的な進歩は為し得ない、という気持ちが込められています。
モンテーニュは、正式な文筆家ではなかったのですが(当初は、社会から引退して、心静かに随想を書こうとしていた)、はからずも後世の多くの著述家に、膨大な影響を残した、異色の人物のひとりといえるでしょう。
彼は、南米から連れてきた原住民たちを王族貴族のもとに紹介し、一定期間を過ごしたとき、驚くべき事に気づきます。それは、健康な精神と身体を以て生きることにかけては、また、人間としてまともな情緒で共同社会を営む方法については、16世紀当時のモンテーニュの祖国フランスよりも、はるかにこの南米人の原始的な民族のほうが、たちまさっていた、という点でした。
西暦1500年代のフランスは、たしかに、科学技術や思想、建築様式の面では南米の原住民よりは進んでいても、フランス国内のキリスト教徒たちが、「旧教(カトリック)」と「新教(プロテスタント)」の宗派に分かれていき、互いに内戦状態に陥り、虐殺を繰り返すありさまで、とても「文明開化した国」とは、少なくとも、モンテーニュの眼には、映りませんでした。
そして、当時の宗教を取り巻く状況は、国民の数パーセントが起こしている争いでなく、ほとんどすべてのフランス国民がカトリックかプロテスタントだったわけですから、身近で発生する宗派の争いについて「我関せず」という立場を取るのは非常に困難を極めていました。
それゆえ、すべての同時代人の同胞たちが、戦うか、戦いたくなくても、逃げるか、武器を持って抵抗せざるを得ないような「文明国」だったという状況です。
モンテーニュは、このような無意味に見えるフランス国内で同胞を敵として虐殺し合う抗争を目の当たりに見ており、そんなときに、南米の原始民族と知り合いになって、ハッと思い知らされることになるのでした。
人間的にともに暮らすための知恵にかけては、「宗派の違いだけで互いに殺し合いをする『先進国・フランス』」よりも、「人間的に調和して幸せに生きる『原始的な民族』」の側に、真実の光を見た、というわけです。
しかしながら、公的に高い地位にもあったモンテーニュが、公式の著作において、公権力に等しいキリスト教の教会を、おおっぴらに批判することは、まさに死を意味したので、いくらか控えめな批判になっています。あるいは、いったん批判調の警句が続いたあとに、バランスを取り戻すかのように、「当時のキリスト教会を讃える」表現を散りばめて、生き延びるための戦略を図っているかに見えます。
が、「文明国の住民」と「原始民族」の人間性を比較して矛盾を感じるモンテーニュの心には、時代を超えた普遍的な感覚が備わっていた証拠でしょう。多くの人は、生きるのに必死で、他国の文化と祖国の文化を比較する余裕などなかったからです。
このようにモンテーニュは、晩年に至るまで、観察を深め、当時の文化的先進国フランスに生まれたからとか、家柄などをあてにせず、謙虚に真実を探求し、記録していった人物でした。
古代から中世、そして現代に到るまで、課題であり続けた、自分自身とはなにか、という問いかけは、現在もなおひたすら続いており、答えが出たのかについては、あいまいなままです。
仮に答えが出たとして、ほかの人に役立つのかどうかは、疑問です。正確も、生活史も甚だ異なる人間のあいだに共通項を設けるのがいかに難しいかは、こんにちを生きるわれわれも、経験的に、いやというほど知っているはずです。
さて、いにしえからの賢人たちが思い悩んできた、ある意味、永遠の課題といえるかもしれない苦悩の根源には、いったい何が隠されているのでしょうか?
この、一見簡単なようで、意外に到達しにくい境地である、「自分自身を知る」方法について、きょうは、見ていきたいと思います。
特に、アセンションを控えた現代における、【スピリチュアル】自己と世界を往来して、自分自身を知るというテーマで行きましょう!
地下室から出ない人を想定してみる
たとえば、まず、
1.生まれてからずっと地下室に住んでいる人
がいたとしましょう。
その人が自分を語るとき、いったい、何から語るのでしょう?
さらにその同じ人が、
2.いやいやながらでも社交界に引っ張り出されて、長い間、経験を積まされる人生を歩んだ
としましょう。
その人が語る自己とは、同じ人が地下室にいたときと同じでしょうか?
答えは、「いいえ」でしょう。
そうはならないはずです。
前者1.生まれてからずっと地下室に住んでいる人では、自身の五感から得られる情報を頼りに推定するしかありません。輪郭はぼやけてしまいます。
自己と他者という認識はストレスを生みますが、適度に接していないと、わたしたちは自我を感じる困難に直面してしまいます。
実際にそのような人物はいないでしょうが、あなたの想像力の中で、生まれてからずっと地下室に住んでいる人を想定して、その自我の輪郭を描くときの難しさを推測してみてください。
後者2.いやいやながらでも社交界に引っ張り出されて、長い間、経験を積まされる人生を歩んだ場合では、社会から観取した感覚で、すこし自己の輪郭の描き方に奥行きが出ます。押したり引いたりする感覚で、調整します。そこから全体像と自己の輪郭を割り出します。
自分を知る、というと、隠者のように世を避けて通り、内面だけを見つめていればいいように錯覚しがちですが、そうではないことが分かります。
じっさい、多くの方が、この後者に該当するはずです。その場合、どうしてもデメリットばかりが浮かんで来がちになりますけれども、実は、自己の輪郭を割り出すのに一役買ってくれていた、と、あとから気づかされることも、しばしばあるものです。
瞑想も、もちろん利用する
ただし、一人でいること、瞑想がよくないわけではないので注意してください。
世に流されろ、というのではなく、バランスの問題です。
社会の歯車に収まっていると安心するのは、帰属意識が満たされるからです。
だれかとの固定的なつながりの中にいて、守られている安心感は、べつにわるいことではありません。人間の本能の一部でしょう。
しかし、狭い、固定された社会的関係から、あなたの「自我」を規定しようとする場合、どうしても、人間関係や環境の変化に弱くなりがちです。
たとえば、
・人事異動で「よい上司」が動いてしまった
・友人が結婚して疎遠になり寂しくなった
など、たまたまそのとき、配置や人間関係に恵まれていただけで、人生の波に乗ったと錯覚しがちなのが、わたしたち人間の性分ではないでしょうか。
自分が周囲との微妙な関係の、もろい砂上にいると考えず、この先も安泰だと思い込みがちです。
そのような人間をとらえる錯覚から自由になるためにも、ぜひ、瞑想を推薦したいと思います。
瞑想は、心身に良好な影響を及ぼす事実が、科学的なデータで、数多くの研究から判明しています。それを利用しない手はありません。
最初から「ひとりぼっち」でいる人間などはいません。みな、外部の嵐にさらされて生きています。
問題になるのは、外部の嵐にさらされたあとに、どう反応するかです。
荒削りに削られた「自我」を、彫刻のように仕上げていくために、瞑想を活用しましょうというわけです。
そこで、瞑想の出番です。
心を鎮め、逡巡し、未来のビジョンとつながる。
瞑想は、現実逃避でなく、外部の嵐に見舞われたあとに、魂を立て直すための、重要な機会なのです。
必要なときは、避けることなく他者や社会を向き合うことによって自己の輪郭を割り出します。
あとは、瞑想で心身の安定を整えましょう。
瞑想するときに、大事なのは、この宇宙についての基礎情報を知ったうえで行なうと言う点に尽きます。
3次元だけの感覚で瞑想を行なっても、ワイドショー的なビジョンしか浮かんでこないでしょうから。
そのために、スピリチュアル系の情報で、あなたのお気に入りのものを見つけ、そこから得た情報を瞑想に携えていくと、成功するでしょう。
もちろん、当サイトでは、アセンションに必要な情報をひととおり網羅していますので、「スピリチュアル」ジャンルの各記事から得られたヒントにされてもよいでしょうし、そこに登場するキーワードから、各種情報を探して、あなたがこれと思うところを寄せ集めて、瞑想に使ってくださってもかまいません。
瞑想する過程で、不純物、つまり、どうでもいい情報は濾過されていきます。
それでもまだ何かが欠けている感じがしたら、その不足分は、音楽や書籍、映画などで補充し、全体的な自我を形成していくべきでしょう。
職場のパワハラ発言は、無視する!!
社会とのかかわりから、自己の輪郭を割り出すと言っても、
▲ お世辞ばかりを言われて、うぬぼれてしまい、かえって自己を見失うケース
や、
▲ 暴言ばかりを浴びて、自信をなくしたり、自暴自棄になったりするケース
もあります。
これは、当然のように、本人ばかりでなく、周囲まで巻き込んで、不幸の嵐を吹かせてしまいます。
ですから、雇用されていれば、世間が分かる、というのは、本人の錯覚に過ぎません。たまたまその人が属していた集団内における立場で、世界や人生のすべてを説明できるはずがありません。
そのようなわけで、もし、あなたが、職場で「おまえは、ダメなやつだ」みたいな言い方をされたとしても、それを自我に取り込まないでください。それは、その人が、そう思いたいから言っただけであり、あなたの自己認識を親身になってお手伝いしてくれているわけではないからです。
そのようなことばは、さきにみた瞑想によって、状況を理解し、手放すようにしましょう。ねじれた人格の人が多い職場では、こうして逃げ切るしかないと思われます。
職場のパワハラ発言は、無視しましょう!!
たとえ無視できなくても、理解してから、手放し、蒸し返さないようにして、もっと明るい、自分の気持ちを喜ばせる現象に、意識して目を向けるようにするとよいでしょう。
去らない嵐はない、ということです。いつかは寛解します。
自然の内部に打ち解けて、自我を感じる重要性
一般的に、「他者や社会」と聞いたとき、競争や仕事に追われる日々を思い描いてはいないでしょうか?
ここでは、条件反射のように、そう連想しないで、
◎自然界に浸るときの感覚(沈み行く夕陽を眺める、青空を仰ぎ見る、など)
◎デパートで買い物をしているときの気分
◎レストランで注文票を見ながらメニューをどれにしようか迷っているときの気持ち
以上のような情景を、思い浮かべてみましょう!!
これらに共通するのは、「肩書きの外れた自我」を無意識で体験していると言うことです。こうしていれば、「他人や社会」という話題になったときに、「比較され、下位に置かれる恐怖感」や「自分だけは違うという疎外感」から、あなたは解放されているはずです。
自分の内部に打ち解けて、自我を感じる必要性は、ここにあります。
人間だけの世界で、二元論を論じる危険性
しかし、狭い人間社会の中での比較だけでは、二元論に陥る危険性がつきまといます。
そもそも、地球本体から独立した「人間社会」というものが成り立つのは、幻想の上だけに過ぎないのではないでしょうか? 幻想という砂上の楼閣から逃れるには、どうしたらよいのでしょう。
切っても切れない関係にあるのが、自然の動物、植生、海、川、大気などです。そこかしこに、生命が偏在しています。
また、無機物にも意識が具わっています。
たとえば、岩や、鉄鉱石などにも、あるというのです。
どんなものも、「そういうものに、なろう」と「考えて」、「そういった状態を続けることに価値がある」と「判断して」、「そのような無機物として地球に存在している」という考え方をすんなり受け入れられる方は、かなり波動が高いと言えるでしょう。
ですが、多くの人間は、まだ、その神秘に目覚めていないのが現状です。
もしこのことにいち早く気づいたら、あとは、自動で、意識がその周辺情報を探知して、情報収集してくれるでしょう。この最初の取っ掛かりが大切で、どの時点かでスタートが切れさえすれば、特に指導者を求めなくても、アセンション感覚は身についていくはずです。
このサイトも、そのような取っ掛かりになればというコンセプトで書かれています。
そのため、いきなり結論を言わず、そして、スピリチュアルばかりでない、周辺情報も発信しているのです。
★自然に触れあう機会を増やす
★目にする動植物の心的内部に入り込んで共感の目線で世界を感じてみる
★地球と調和する音楽(モーツァルト等18世紀~19世紀初頭の古典派音楽、現代の環境音楽など)を流し、内面のアンテナを整える
ひとりでも多く目覚め、人類の総和でのアセンション発表の日が、待ち遠しいとの思いがします。
サイト名 : 一人を生きる -希望の彼方に-