【論より証拠】 動物は、しゃべれるのか?! 動物機械論と、超常決戦!
- 【論より証拠】 動物は、しゃべれるのか?! 動物機械論と、超常決戦!
- 急ぐ理由
- 古代からあった『動物機械論』を、映像から反駁してみる!!
- 映像は語る
- オオカミに育てられた人間
- 社会的な大混乱を抑制するために
わたしたち人間の身近な存在である、動植物たち。
彼らは、知性を持っているのでしょうか?
もっというと、人間のことばを理解して行動できるのでしょうか?
これについては、古代から議論されてきましたが、それを逐一、たどるのは、ひじょうに時間を要する作業であり、次回以降の記事に譲ることにします。
まず、手短に理解していただくために、『論より証拠』と名付けて、取り急ぎ、記事を書いてみることにしました。
・・・と、威勢よく出だしを切ったのはいいのですが、ひとつだけ、追記させてもらいたい点があります。
このタイトルが「 ~ 超常決戦」となっているのは、一般的に使われる表現方法である「頂上決戦」とキーボードに打ち込もうとして、「頂上」と変換するべきところを、まちがって「超常」と誤変換してしまったわけではないという点を、ここで強調しておきたいところです。親愛なる読者のみなさまがた、どうか誤解しないでください。
読者「いきなり、タイトルが、まちがってるじゃん、あはは・・・」 → 即、離脱
となってほしくないために、まわりくどいようですが、わたしが元来、慎重派の性格として生きてきたため、このように記述してきました。
つまり、いまだアセンションを知らない人たちからみれば、UFOや動物がしゃべるなんてことが起きたら、それこそ超常現象的だとあわてふためくだろうと予想して(そして、テレビ討論会等での勝利を確信して)、あえて「頂上決戦」というべきところに「超常決戦」という言い回しを使用したわけです。
急ぐ理由
わたし個人の直観ですが、もう、この時期、地球人類たちは、アニマル・コミュニケーション(動植物との精神的な交流)を開始しなければ、アセンション後の世界への準備が間に合わないのではないか、と感じているからです。
アセンションした先では、人間しかしゃべれない、という誤った固定観念に支配された世界は、もうどこにも見当たらないでしょう。
すでにここで、結論を申し上げているのですけれども、動物には知性があり、究極には人間と会話が成立します。
数千年もの間、議論されても決着が付かない、もどかしい展開でしたが、今回は、別な角度で、簡易に、判定できそうな内容にしてみたいと思います。
まさに、論より証拠、ですね😺
この世界でニュースになることといえば、疫病や、戦争の機運などですが、それらの潮流は勝手に生成されていくものですし、いちいちかまってはいられません。
ほかに、もっと、アニマル・コミュニケーションの準備を進めたほうが、平和な世界を現出させるには、もってこいの手法といえるでしょう。
古代からあった『動物機械論』を、映像から反駁してみる!!
古代から、動物は機械的に動いているに過ぎない、と、その知性の存在を却下する風潮が圧倒的に支配的でした。
その反面、歴史に残らない部分、つまり支配者が書物などで残したもの以外の、民衆の感情レベルでは、当然、
「動物も、人間と心を通わせることの出来る貴重なパートナーである。」
との認識はありました。
しかし、学術レベルになると、どうしても認知しない方向に行ってしまうのは古代から現代まで一貫しています。
おそらく、それを認めると不都合な事情が隠されているにちがいありません。
この最後の強靱な壁を押し破るのが、わたしたちの仕事です。
大まかに言って、
動物の理性を否定する勢力
と、
動物に共感を示す立場の勢力
の双方が古代からおり、どちらかというと、前者が優勢といった感じがあるのは、だれもが学校で教わってきた内容から、判断できます。
前者の、
動物の理性を否定する勢力
の代表格は、博学で知られた古代ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384~同322)、そしてフランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1650)などがこの立場であり、現代の学術界にも綿々とその影響を及ぼしています。
彼らの主張は、「動物には人間のような理性がなく、感情も持たないので、道徳的な扱いをする義務はない」と要約できるでしょう。
しかし、ここで注意しておきたいのは、彼らがそれによって、偉大な業績を否定されるわけではないという点です。彼らはその時点でわかる範囲内で判断した結果に過ぎません。
むしろ、動物の理性がないと主張する現代人の側に、問題点が潜んでいるような気がしてなりません。
というのも、「アリストテレスがそう語ったから、そうに違いない。」とか、「近代以降の科学は万能であり、哲学者であると同時に数学者でもあったフランスの天才デカルトが、動物は機械と同じで意思が欠けているといっているのは、正しい。」と、何の深入りした検証もなしに、偉人の名という権威に寄りかかって盲信しているだけのケースが、いまだに少なくありません。
いっぽう、後者の
動物に共感を示す立場の勢力
の立場にいる思想家では、
★三平方の定理で著名な数学者で、哲学者でもあった古代ギリシャのピタゴラス(紀元前570頃~同496頃)
★厭世主義で知られるドイツの哲学者ショーペンハウエル(1788~1860)
★『学問芸術論』で華やかにフランス思想界にデビューしながら、まさにそのために後年迫害を受けることになった悲劇の思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)
などが、その思想の領域で、動物擁護の側にいるとして位置づけられています。
◎古代ギリシャのピタゴラス(紀元前570頃~同496頃)は、「人間が死後に輪廻転生して、ふたたび地球に降り立つとき、今度は人間としてではなく、動物や虫などに生まれ変わる可能性がある」と信じていて、そのために、すべての生き物に親切に接するよう説きました。
◎ドイツの哲学者ショーペンハウエル(1788~1860)は、仏教などの東洋の思想に影響を受けており、「苦しみを感じるようにみえる生き物には、すべて優しさと共感を持って接するべきだ」と語りました。
◎フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778)は、『人間不平等起原論』のなかで、人間が飾り気のない、純真だった原初の世界観を想定しました。
が、文壇の主流派たちからは、華美で贅沢な文明化を揶揄(やゆ)し、自然と動植物を賛嘆するかのように受け止められてしまいます。
その後、ルソーは好敵手たちから「市民のみなさん、賢明なルソー氏の助言に従って、これからわれわれ人間たちは、幸せになるために、2本の足(=人間)ではなく、4本の足(=獣)で歩き回りましょう!」などと批判を浴びるようになります。
これは、ルソーが著作の中で自然を賛美し、動植物の心に純真を見出すかのような言い回しを繰り返すことによって、相対的に人間の地位を貶めたとして(ルソーにそのつもりは無いのでしょうが)、それに対する報復のかたちで反対派らが皮肉を言っているのです。
ですが、啓蒙思想が主流だった時代とはいえ、さすがに言い過ぎにも聞こえてきます。
ともかく、われわれ日本人からすると、後者の意見にふれたときに、ふとした安堵感を覚えます。ああ、これが自然だった、人間の本来の在り方に近い、と。
古くから花鳥風月を愛(め)で風流を解する民族として知られるわたしたち日本人の心象からすると、どうしても、『動物機械論』の立場の人物が主張している説、つまり、動物は、ゼンマイ仕掛けの人形に過ぎず、一定の感覚はあっても、苦痛も感じないし、喜びもなく、未来を憂える理性も持ち合わせていないとする考えに与(くみ)することのほうが、よっぽど困難ではないでしょうか?
◎とにかくアセンションを間近に控えた現代に生きるわたしたちは、
「生活を維持していく目的で(いやいやながら?)している仕事」も大事ですが、「動物機械論を打ち破る」という、こちらの仕事を達成したあかつきには、もう、いやいやながら強いられて行なう仕事も、見事、地上から消滅していくわけですから、何としてでも重要な事実を拡散していって、ひとりでも多くの方々の目覚めを促していく一助になりたいところですよね?
映像は語る
近年、急送に普及したインターネット。
中でも、YouTubeなどは、有名ですね。
ここで、世界的に人気のある、
『犬』
そして、
『ネコ』
に登場してもらいましょう!!
古代からある論争に終止符を打つために、新たなる論争を仕掛けることによって解決する可能性は、かぎりなく低いでしょう。
2千数百年ものあいだ、続いてきた「動物に理性や感情があるか」論争にピリオドを打つには、「映像」媒体の力をかりた方が早い場合もあり、今回のケースがその代表格と言えます。
次にご紹介する動画は、犬とネコにかかわるものです。
どんなに懐疑的な人物でも、これらの映像を見たら、動物と人間とのあいだに大きな衝立(ついたて)を設けることが、ナンセンスに思えてくること間違いなしでしょう!
1つずつ、その内容を説明していきましょう。
このなかで、デジカメを構えている飼い主さんに向かってダッシュする動画は、全国的に有名な、犬の飼い主向けの専門雑誌に取り上げられ、2017年の犬の映像部門で、堂々の第1位を獲得した映像です。
これだけ表情が豊かであるのに、「動物(ここでは、犬)に感情がない」と断定するためには、それ相応の説得力ある説明が為されなくてはならないでしょう。
もちろん、ここでは、犬がいきなり日本語でしゃべりだすわけではありませんけれども、あまりの表情の豊かさに、あたかも犬がしゃべっているかのような錯覚を持ってしまうほどです。
しかし、あらためて思うのは、ふだんから普通に動植物といっしょに暮らしている方であれば当然と思われるかもしれませんが、懐疑派というものはなかなか手ごわい存在で、動植物の知性や感情を否定することに血眼(ちまなこ)になってきました。
そこまでして、人間が万物の頂点に立っているという幻想に浸らなければ平常心を保てないのか、と、不思議に思えてきますが、彼らの意識の度合いがそこにとどまっている間は、議論は平行線を辿るしかなく、時間とエネルギーの無駄です。
よって、われわれが率先して、小さな変化を継続して、この事実を波及させていくのが最善なのです。
ぜひ、動植物好きの読者のみなさまも、さりげなくでかまいません、動植物の価値を否定して止まない勢力の態度が軟化していく方向に、持って行く努力を惜しまないようにしましょう!
それが一大潮流になれば、つまり、人間以外の動物にも知性や感情があると、社会的な認知が進むと、今度は、地球外生命体=宇宙人=UFOの存在を社会が受け入れる素地をも、同時に築き上げることにつながるからです。
くつろぐ犬 =コーギー犬= (写真は、イメージです)
『マグロうまい』のネコは、2008年ごろのもののようで、少し古いですが、インパクトの強烈さと、かわいらしさだけは、歳月の経過を感じさせません。
マジで、ネコがしゃべっちゃってます!!
マグロの缶詰に顔を突っ込んでいる間だけ、『マグロうまい』を連呼している場面から想像できるのは、ほんとうに、その状況を人間と同じく理解していて、正直な感想を述べているように思えます・・・
まったく、ネコがしゃべれるなんて・・・すべてのネコに、潜在能力がありそうですね・・・
マジ、しゃべってますよね・・
『新聞屋』さんについて世間話をしているかに見える2匹のネコも、言葉と動作が一致しているように見えて、面白いです。
ネコ同士が、関西風のおっさん的な言葉遣いで対話しているように見えるのですが、本当にしゃべっているのでしょうか?
ネコたちがしゃべっている言語が日本語かどうかについては、賛成・反対に意見が大いに分かれそうなポイントながらも、
少なくとも、ネコ同士の間で通じる何らかの鳴き声で意思の疎通が行なわれているのは推測できる、貴重な映像だと思います。
わたしたち人間を驚かせないように、人間のいるところではしゃべらないけれど、動物だけになると、人間の言葉で会話しているのでは?と思いたくなるような映像ですね?
(写真は、イメージです。ほんとうは、しゃべれるのでしょうか・・・)
※注1
著作権等の関係で、ここからリンクされないようになっているため、各自、接続状態の安全を確認した上で、別途、閲覧願います。
しかし、わたしは何回も見ているので、通常のPC等のセキュリティレベルでは特に問題ないと思われますが、さまざまな動画提供先があるかもしれないし、各自の使用媒体が異なるため、その点のセキュリティを確認の上、自己責任でお願いします(セキュリティソフトを入れている場合は、その指示をよくごらんください)。
さて、これら一連の衝撃的な映像を見て、あなたは、
「それでも、動物には知性が無い。」
と主張できるでしょうか?
ちなみに、映像を見なくても、ここで表記した内容だけでも、あなたの想像力を駆使すれば、イメージが浮かんでくると思うので問題ないでしょう。実際の映像については、時間的に余裕があるときに見たら、面白いかも知れません。
・・・それにしても、なんか、最近、やたらと、人間に似た感じの動物が増えていないでしょうか?
そう感じられるようになった要因のひとつに、やはりインターネット上の動画の流通と、使用媒体の拡大が挙げられるでしょう。
疫病で室内で飼われている動物が増えたことが原因でしょうか(上記に紹介した、ネコの映像は、少し古いですが)。
動物たちがしゃべれる、しゃべれない以前に、あまりにもかわいらしくて、思わず微笑んでしまいますよね?
動物好きはもちろん、いままで動物に興味の無かった人も、こころがほっこりしないではいられないと思います・・・
オオカミに育てられた人間
論より証拠とはいいながら、ここでは、ひとつだけ、例を出しましょう。
有名な、ヨーロッパで起きた、子育て中のオオカミに、その子どもたちといっしょに育てられた、人間の赤ちゃんの物語です。
その子どもは、人間に発見されたとき、人間の言葉は当然話せませんでしたが、オオカミの一員としては、立派に訓練された存在に成長していました。その後、まもなく亡くなったものの、貴重なドキュメントといえるエピソードではあります。
ここでは、オオカミの群れの中で育てられていくうちに、オオカミとしてふさわしい知性を備えれば十分であり、いちいち人間と比較するのは愚の骨頂ではないかという結論です。
地球上ではそれぞれの生き物に、そして、各個体に、それ相応の能力が与えられており、当然、コミュニケーション能力も持っています。
いきなり、ある人間が、類人猿の群れに入ったとして、木登りがうまくできないからといって、その群れから存在価値を全否定されたら、どう思うでしょうか?
実験室にいきなり動物を連れてきて、人間の質問に答えないからと行って、愚かだとか、野蛮だと決めつける行為は、いささか野卑に映ります。
(写真 = 進化を遂げた惑星都市のイメージです)
社会的な大混乱を抑制するために
今回は、ディスクロージャー時に、いきなり、動植物に知性がある、あるいは、いきなり会話を始めた場合に、驚く人を減らす目的で、記事を書きました。
ここでいう「驚く人」とは、自分が飼っているペットがしゃべりだしたり、動植物を日頃格下と思っている人などをさします。このような人々は、社会的な大混乱の根源をなす可能性が高く、そのようなリスクを少しでも前もって抑制したいと、常日頃から願っていました(このサイトを以前から訪問してくださっている方については心配していませんが)。
もし、狭い了見でしか物事を判断できない人間が多いままだと、第3次世界大戦に突入するシナリオがあるとしたら、その悪夢が実現する危険も大きいといえるのではないでしょうか?
しかし、ここで立ち止まり、きびすを返し、人類がふたたび動植物たちとの浄福の環のなかに回帰する決心を固めたとき、二度と戦争も疫病も、さらには自作自演の悲劇も起きない、楽園が誕生していることでしょう。
しかし、残念なことに、動植物の真価に気付いている人は、まだ多くはありません。
ここを訪れた方だけでも、気付きを得て、翻って、人間の真価を認め、さらなる向上をめざしていってほしいと願ってやみません。
もともと、そのような活動に尽力されてこられた方は、いっそうのご活躍を祈念いたします。
ここでわたしたちが、どのような選択をするのか、あるいは、しないかによって、おおげさに聞こえるかもしれませんが、全人類の運命が変わっていくと予測される、きわめて重要な地点に立っているとの自覚を強く持つ必要があるのです。