晩秋の夜々に、人生の哀愁を想う
「枯れ専」という言葉が一時、もてはやされました。
ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
現在も商業主義の一環で使用されているようですが、当初の意味合いは少し違ったものだったと記憶しています。
壮年期の終わりにさしかかった独身男性が喫茶店の窓辺にもたれ掛かっている表紙の本が販売されていたころが、「枯れ専」という言葉の始まりでした(現在は絶版のようです)。
恋に破れたり、一生独身で過ごすことに不安をいだく独身者に、希望の光があるかも、と淡い期待を持たせるような、造語だったと記憶しています。
しかし、その後のブームは、自然発生したものではなく、ビジネス目線でだれかが仕掛けたものであり、わたしたちの生活感情に密着していない感じがします。
枯淡の境地をめざす
かりにいつの日か、相手が目の前に現れたとしても、それは、結局は、一時的な気休めにしか過ぎないことに、いずれ気づく運命にあるでしょう。
人生の最終局面に向かいつつある独身者にとっては、そのような淡い夢を見るよりも、人生の総決算をしなければなりません。
それなのに、生涯の後半生に、他者の出現を待望しながら、日々を過ごしても、ますます解決困難な局面に、無防備な自己をさらすだけに終わるのではないでしょうか?
「愛する」より、「愛される」ことを待っていては、わたしたちの人生の完成はおぼつかないのではないでしょうか。
もちろん、恋心をもつことは、心身をリフレッシュするのに役立つことは否定しません。
ですが、それを最大の目標に掲げてしまうのは危険だと言えないでしょうか。
これまでの人生における積み上げが何なのか、不明瞭になります。
バランス感覚を働かせて言うならば、次のようにまとめられます。
ほのかな恋心を否定することなく、
されど、
枯淡の境地をめざす。
もちろん、恋の花が咲く日がいつ来るのか、それとも来ないままで終わるのか、わたしたちの人知の及ぶ領域ではないです。
そのため、どちらに転んでもいいように、特に、よくないと思われる展開になることを想定してシミュレーションしておくと万全でしょう。
そこで、今晩は、わたしたちの人生の伴侶役を、人間にではなく、音楽に取って代わってもらう試みです。
今日は、晩秋の夜々に、人生の哀愁を想うような、音楽を2つ、ご紹介します。
グスタフ・マーラー(1860-1911)と、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)がそれぞれ作曲した音楽になります。
大地の歌
グスタフ・マーラー(1860-1911)の畢生の大作である「大地の歌」は、歌曲とシンフォニーの中間に位置する巨大な作品です。
シューベルトと同じく歌曲の作曲に通じていたマーラーは、この曲に「交響曲第9番」という呼称は不吉だとして、番号を付けずに、あえて「大地の歌」と命名しました。
もちろん、このときマーラーの念頭から離れなかったのは、偉大な先達であったベートーヴェンの第9交響曲でした。
さらに、ベートーヴェンをはじめとして、シューベルト、ブルックナー、ドボルザークといった著名な作曲家たちが相次いで、交響曲を第9番まで仕上げたあとに他界している不吉な数字の【第9番】を避けたためでした。
ところが、そのあと、マーラーは第9番となる交響曲を作ることになりましたが、第10番の作曲途中に、それを完成することなく、結局のところ、第9番まで完成させて他界するという皮肉な運命をたどるのでした。
マーラーにはユダヤ人の家系の血が流れており、本人のアイデンティティにも甚大な影響を及ぼしていました。
また、兄弟が若くしてみずから命を絶ち、さらには愛娘を失うなど、さまざまな家系的な悲劇を体験してきていました。
そして、有力な指揮者としての名声と得ながらも、劇場支配人との意見の相違から対立することもしばしばで、職場を転々とさまよう結果となります。
さらに、マーラーは20歳近くも年下のアルマ夫人と結婚したものの、幸福の夢もつかの間、不倫騒動に巻き込まれて絶望の淵に落ちてしまい、そのさなかに、心臓病がもとで、51歳でこの世を去っています。
全曲を通して、漢詩に西洋の音楽をまとわせた、異国情緒に満ちあふれた感動的な音調に仕上げられています。
ハンス・ベートゲによる漢詩の独訳は、マーラーの自然に対する賛美と、死の恐怖や厭世観、そして、来世の復活への憧れを見事に融合して、美の極致と表現することに成功しています。
この「大地の歌」の終楽章は巨大で、先行する1~5楽章を大幅に超える演奏時間を要する構成は、最終章の歌詞に作曲者の強い思い入れがあったことがみてとれるでしょう。
東洋と西洋の出会い
古代中国の思想のうち、孔子は儀礼を重んじ外的な知恵のありかたを説いています。
それに対し、老子はタオ(道)の思想で知られ、日本の幽玄と相通じる点があります。
ご存じのように、老子は、中国の一人の思想家ではなく、多くの著者によって編纂されたという見方もありますが、そのような異国のいにしえの知恵の集大成が、生涯独身に関連する人にとっては、これに多くの示唆を見出すところもあるでしょう。
ノーベル文学賞受賞者のヘルマン・ヘッセや、ドイツの厭世的な哲学者ショーペンハウエルもまた、ことあるごとに、老子について取り上げています。
この作品では、明示されているわけではないのですが、どことなく、老子的な、自然と合一をはかるような境地に、聴く者をいざないます。
人生および西洋に生きることに疲れを感じたマーラーが、東洋に憧れる。
西と東。過去と現在。失望と希望。
境界線があいまいになる。
そして、それを聴くわたしたちも境界線上をさまよい、いつしか魂の領域で、それが統合された「何ものか」に出会うことになるのです。
そんな、神秘的で幽玄な音楽は、「永遠に・・・」と歌われて、消えるように終結していきます。
この音楽の結びかたは、東洋人の感覚に近い。ヨハン・シュトラウスなどのワルツなどは、お正月のニューイヤー・コンサートなどでおなじみですが、わたしたち日本人の生活感情とは相容れないものが含まれています。
美しい諦めの境地
けれども、このマーラーの「大地の歌」の終わりかたは、ちょうど、同じマーラーの最後の交響曲となった第9番の終楽章と同じで、東洋的ともいえる、美しい諦めの情感を伴い、どこか涅槃のイメージが漂います。
ただし、第9番の終楽章アダージョでは、生が消えていく悲しみに満ちた表現であるのに対し、ここでは、歌詞に忠実に音楽が付随しており、まさしく永遠の彼方に、憧れを抱きながら、かすかな希望を残して音楽が「美しく」消えていきます。
この最後の部分は、すぐに終わらずに、何度も「永遠に(ewig)」という言葉が歌われてとても印象的に、どこか日本人好みのするような和音によって結ばれます。
永遠に回帰する自然と合一する
人間が個として消滅することの怖れは、永遠に回帰する自然と合一する過程で忘却され、循環する。
マーラーが表現したかったのは、まさに当人が現実の人生で怖れていたことを、音楽の上で解決する試みだったのではないでしょうか。
そして、それを聴く者には追体験として共感され、ついには、自然と人間の魂とは不可分な領域に達したことを悟るのです。
晩秋の夜に流れると、ひじょうに胸にしみる旋律美が、生涯独身を覚悟した人の胸に、しんみりと響きます。
ラテン語の教会音楽と違って、歌詞が突然、たとえば中段から最初の飛んだりしないので、ドイツ語ながら、どの部分を歌っているかは、日本人に耳にもわかりやすいです(すべてを理解しなくても、音楽として鑑賞できる作品に仕上がっています)。
特に、第6楽章(終楽章)ではその歌詞も美しく、孟浩然らの詩人の言葉が、時空を超えて、現代のわたしたちの心情を代わりに述べてくれているようです。
美しい詩が、ハープを伴う和音で結ばれ、全曲を閉じていきます。
同時代人に癒されなかったら、かつて生きた人がのこした作品から力を得る。
当時のマーラーがこのような音響工学の発展の結果、東洋の一般家庭で聴かれる事態など夢想だにしなかったはずなのに、それにもかかわらず、このような影響をもつとは、実に奇妙な感覚にとらわれます。シンクロニシティのようですね。
演奏は、オットー・クレンペラー指揮のものが安心でしょう。歌の精神に貫かれており、古き良き時代の歴史的名盤といえるでしょう。
ブラームス 最後の交響曲
ヨハネス・ブラームス(1833-1897)が作曲した「交響曲第4番」は、中年のオーケストラ奏者に人気がある曲です。
隠退期に入っていたブラームスが、つねに新奇を求める聴衆から作風が地味で古びているという理由で距離を置かれ始めた時期に当たります。
そこで、無理をすることなく、古びた作風と酷評された点をさらに過去に遡って推し進めて、渋めの作品に仕上がりました。
とはいえ、第3楽章などは、たとえばチャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』の第3楽章のように行進曲風のリズムで生き生きとしており、さらにトライアングルまでも登場するのでひじょうにきらびやかであり、けっして渋いのひと言で評することのできない、深みのある音響的に豊かな作品でもあります。
ブラームスがこの「交響曲第4番」を書いたのは52歳の年、亡くなったのは63歳ですから、交響曲に関して言えば、ブラームスも、このジャンルにおいて、セミリタイアの部類に属します。
19世紀においては音楽家としての重要な信仰告白の形式と目された「交響曲」というジャンルからは、亡くなるまで10年ほどを残しながら、“セミリタイア”したようにも映るわけです。面白いですね。
人生観を凝縮するかのようなパッサカリア形式
そして、その最後の交響曲のフィナーレは、パッサカリア形式で構成されています。
これはバロック音楽の時代に栄えた形式ですが、同じ楽想を少し変えながら繰り返す変奏という点で、中年にさしかかる年齢の発想と相通じるものがあるのでしょうか。
あえて、古いにとどまる、無理をしない、単一の人生観を凝縮するという点で、このパッサカリアという形式は、現世よりも来世に託さねばならない年齢に、なじむものなのでしょうか。
人生の黄昏時に、そして自身最後となる交響曲の最終楽章に、パッサカリアを用いた、ブラームスとショスタコーヴィチ。ふたりの偉大な作曲家には、何か共通する心理が潜んでいたのでしょうか。
思うに、若いころの勢いは失せ、わたしたちは、外部に自身の理念が実現するのを目撃する光栄を諦め、自身の内部に、寄せては返す波のように単一の想念が一種の変奏のように支配的となるのでしょうか。
人生の本質を探究したい意思を表すかのような、このパッサカリア形式にこめられた作曲者の想いは、時代も場所も遠く離れた現代の日本に生きるわたしたちの胸に迫る何かを持ち合わせているのは確かでしょう。
それまでの生涯の中で自己の抱いてきた想念を深く追究していき、核心にたどり着きたいという、言葉にならない願望なるものは、言語や民族の違いを超えて、厳然と存在しています。
第1楽章の第1主題に現れる、枯れ葉が舞うようなヴァイオリン群の歌う旋律が、中高年に人気のある要因なのでしょう。
季節の晩秋でもあり、また人生そのものの晩秋における哀愁を切々を歌い上げるこの曲の冒頭楽章は、聴く者に孤独の昇華された姿を現前させずにはおきません。
第2楽章の第2主題は、やっと心の平安を見出した、静謐な心境を告白するかのような音楽で、おだやかに終結していきます。
華々しい第3楽章が全体のバランスをとります。
フィナーレとなる第4楽章は、バロック音楽にも似た晦渋な主題が、色彩豊かな管弦楽で奏される不思議な音響で、パッサカリアにより、情熱的に、ときに静穏に、次々に変奏が進行していき、力強く全曲を閉じます。
この交響曲の決定盤としては、クラウディオ・アバドやヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮した巨匠たちの演奏が、作曲者ブラームスの哀愁をよく表現しているとして評価が高いものとして、おすすめできます。
言葉が存在する以前に、音楽があった
最初に戻りますが、「枯れ専」の場合、相手がいなければ始まりません。
しかも、作られたブームだったとしたら、そのようなお相手は、最初からこの世に存在しなかったことになります。
しかし、枯れていく人生を、穏やかな気持ちで受け止めることができれば、わたしたちの体験している人生そのものが蜃気楼に過ぎなかったにせよ、何の問題もなく、人生をまっとうし天界に帰って行けるはずです。
「人生をまっとうするのに、わざわざ、交響曲を聴くほどのこともない」
とおっしゃる方がいるかもしれません。
しかし、心の琴線に触れる一小節、なにかの楽器の心地よい響きを感じることができるだけだとしても、そのぶんだけ、聴く者の人生は豊かさを増したことになるのです。
わたしたちがふだん言葉を音声として発する以前に、言葉にはならない、何かを心が感じ取っているといわれています。
その何かが、「音楽」だとしたら、それに触れて、人生の哀愁をやわらげ、ともに歩む伴侶とするようにしたいですね?
時を超えての共感
わたしがまだ若かったとき、FMラジオで、ブラームスの交響曲第4番が流れてくるのを、初めて聴いていたときのことです。
このとき、拒絶反応というより、
「この曲は、何がいいたいのだろう?」
「こんな音楽を聴く人のセンスがわからない。」
「暗くて、重たくて、意味不明な音楽だ。」
とさえ思った記憶があります。
音が、体を「素通り」していきました。
まさにそのように言い方がぴったりでした。
しかし、同じ曲をあとになって聴きなおしてみると、不思議と、
「・・・なんか、わかるよね?」
と、愛着を感じられるように変わっていて、驚きでした。
分析するに、わたしの心が、ブラームスに追いついてきたのだ、と悟りました。
時を超えての共感とでもいえましょうか。
孤独から得られるもの
一般に、孤独は、人によって癒されるとは限りません。
ときに動物であったり、花であったり、芸術作品であったり、人以外のところに癒やしの秘宝が隠されていることは、よく経験するところです。
人は孤独になるためにはまず思想が必要であり、さらにおしすすめて孤独を昇華した末に自然と合一する境地をめざすなら、こんどは思想を捨てる必要に迫られます。
そのような観念的な感覚を体感するには、芸術作品を鑑賞することが手っ取り早いでしょう。
そして、わたしたちの目標は、現世にすべての価値を置かないで、彼岸のかなたで究極的な解決を求めることも視野に入れるという点に尽きます。
孤独は、悪ではないし、むしろ、内的経路を切り拓くための有力な手段といえます。
孤独を通して、魂を成長させることは、十二分に可能なのです。
【まとめ】
孤独に生きるには、ちょっとした工夫が要ります。
一人でも生きていける、と強がる必要はありません。
助けを求めることは自然です。恥ずかしがらなくてもよいのです。
そして、今回は、
「わたしたちの人生の伴侶役を、人間にではなく、音楽に取って代わってもらう試み」
を検討してみました。
傍らに、かつて生きた人、そしていまは金色に輝く天界にいる人々を、置きましょう。
そうすることで、肉体を持たなくなった偉人たちを“友人”として迎え入れることが可能になります。
彼らの魂は作品に閉じ込められています。
その封印を解くのは、わたしたちです。
ぜひ、堅苦しいと敬遠することなく、偉大な人々をわたしたちの人生の旅の道連れとしましょう。
偉大なのは作品であって、偉人と呼ばれる多くの人々も温かい血の通った「ただの人」でした。
彼らを偉人と呼んだのは後世であって、彼ら自身ではありません。
彼らの多くは、悩める人間の典型に過ぎませんでした。
ゆえに、彼らとわたしたちのあいだに、余計なついたてを立てるのはやめにしましょう。
彼らは、わたしたち自身が心をオープンにしているかぎりにおいて、いつでも、どこでも、友人になってくれるものなのです。
だから、孤独な人も、どうか嘆かないでください。
わたしたちは、そうした意味合いにおいて、けっして孤独になることはないのですから。
知識を増やすためでも、他人に尊敬されるためでも、自己の慢心のためでもありません。
大切な真実とは、いつでも、時空を越えて、万人に共有されることを願っています。
それなのに、わたしたちのほうが、それ以外の、真実から離れた生き方に傾倒する道を選んできたのでした。
偉大な文芸作品に触れあうのは、けっして気取りなどではなく、真実に出会うことを意味しているのです。