『一人で生きる』と『一人を生きる』の違いは、果てしなく大きい
- 『一人で生きる』と『一人を生きる』の違いは、果てしなく大きい
- 「一人で」
- 「一人を」
- 記事を書くたびに、思い返す効果がある
- 孤独を感じるときは、どんなとき?
- 孤独を感じるときこそ、一人を生きる原点に立った証拠です
当ブログのタイトルである『一人を生きる』と名付けるにあたって、頭をよぎったのが、助詞を「~で」とするのか、「~を」とするのかによって、果てしなく大きい違いが生じてくるという点でした。
その後、当ブログのアクセス数を考慮して、「今後、タイトルを変更するか?」という記事を投稿していますが、とりあえず、今回のお話は、現時点では、しばらく「そのままのタイトルで行く」という前提でお読みになってください。
さて、今回のテーマに戻りましょう!
次の2つのタイトルを見比べてみてください。
あなたは、どう感じるでしょうか?
1.「一人で生きる」
2.「一人を生きる」
一見して、同じに見えるかもしれませんが、微妙なニュアンスの違いが感じとれると思います。
この2つのタイトルは、まったくの別物です。
助詞を「で」とするか、「を」とするかでは、まったくといっていいほどまでに、意味が異なるタイトルになることがわかります。
そこには、たった一文字の違いでしかないはずなのに、それにもかかわらず、果てしなく大きい意味の違いが生じてくるのです。
「一人で」
『一人で生きる』と、「で」を使用すると、どのような印象を受けるでしょうか?
◎何か、たよるものが、それまでにあったが、急にそれを失ってしまったために、仕方なしに、「一人で生きる」しかなくなった状態。
◎既成の価値観に反発し、「一人で生きる」と宣言している状態。
◎社会や宇宙全体とのつながりを意識していないため、切り離されて生きている孤独感から抜け出せていない状態。
「一人を」
『一人を生きる』と、こんどは「を」という助詞を使用したときは、どうなるでしょうか?
◎何か、たよるものが、それまでにあった。しかし、仕方なしに、ではなく、一人の独立した人間として、生ききってみよう、という意気込みが感じられる状態。
◎既成の価値観に反発し、「一人で生きる」と宣言している状態、ではなく、社会の価値観を理解しながらも、それとは別の、独自の価値観に依拠して生きてみたいという、ある種の能動性を感じさせる状態。
◎社会や宇宙全体とのつながりを意識して、切り離されて生きている孤独感から抜け出し、謙虚に、全体の中における「一人分」をせめてまっとうしたいと願っている状態。
・・・ あえて表現すれば、上記に見たようになるのではないでしょうか。
『一人で生きる』とすると、どこかさびしい、孤立感すら感じさせます(それがわるいわけではありませんが)。
『一人を生きる』であれば、反発や、孤立感などはそこにはすでに影さえ認められず、達観するまでには到らなくても、全体を理解したうえで、個としての使命感をもって、せめて一人分の人生ぐらいはまっとうしたいという宣言のように聞こえます。
そのあたりを考えて、迷った末に、「一人で」ではなく、「一人を」としました。
記事を書くたびに、思い返す効果がある
記事のタイトルを決めるとき、まず、サイトの運営者は、次の点を意識するでしょう。
1.読者の利便性が高まるようにしたい
2.サイトの印象がかっこよくなるタイトルがいい
この2点は、必ず意識するでしょう。
しかし、サイト運営を継続していくうえで、大事になってくるのは、サイト管理者のモチベーションでしょう。
これは、ブログのタイトルが、意外にも重大な影響力を持っているのです。
たとえば、
●『日々、悲しみの記録』 or 『とことん愚痴ブログ』
というタイトルのサイトを、ある人が立ち上げたとしましょう。
すると、どうでしょう?
毎日、記事を作成するときに、サイトやブログのタイトルが表示されますので、自分自身が命名したタイトルが、刻印されていきます。
①
= ブログ名:日々、悲しみの記録(仮名) =
「あ~ぁ、なんか、やる気しねえよな、このブログ。名前からして、哀愁が漂っているよな・・・(自分で付けたんでしょうが!!)」
②
= ブログ名:とことん愚痴ブログ(仮名) =
「きょうも、いやなことがあったなぁ。ブログにでも書こうか。タイトルにぴったりだし・・・(おいおい、読者のことも、考えてくださいよ。愚痴ブログですか?だれも、貴重な時間を割いて、見ず知らずの人の愚痴なんか、聞きたくないですからね。)」
というように、記事を書いている人の志気が下がりまくること請け合いです。
それに、何よりも、それ以前に、せっかく読んでくれている人のテンションも、激低(げきひく)になるはずですよね。
それは、さすがに、まずいでしょう。
ですが、その反対のケースは、たとえを挙げるまでもなく、冷静に考え抜かれたタイトルだったり、前向きなタイトルであれば、まちがいなく、その記事内容も、ポジティブなものに自然となっていくはずです。
記事を書くときに、毎回、そのタイトルを見て、ポジティブな気分で書けるかどうかが、そのサイトのその後の命運をわけるといっても過言ではないでしょう。
それほど、サイトやブログのタイトル命名は、重要な意味を帯びてくるのです。
記事を書くたびに、原点に立ち返って、思い返す効果があります。
孤独を感じるときは、どんなとき?
そもそも、人間が孤独を感じるときとは、どのようなときでしょう?
1.文字どおり、自分ひとりだけでいるとき
2.知らない人の中で、ひとりでいるとき
3.知っている人の中にいるのに、ひとりだと感じるとき
1.文字どおり、自分ひとりだけでいるとき
この場合では、だれでも、自分ひとりだけでいる状態、話し相手がいないだけ、という状況です。
これは日常茶飯事であり、深い孤独感までは、いだかないでしょう。
2.知らない人の中で、ひとりでいるとき
何かの会合などで、知らない人たちと、同席するときなどです。
必要があれば、話すだけですし、必要性がなければ、そのまま、黙っているのが普通です。
このとき、特段、孤独を感じたりする人は、少ないと思われます。
3.知っている人の中にいるのに、ひとりだと感じるとき
まわりが知っている人ばかりなのに、わかってくれない。
ひとりだ、と感じてしまう。
これは、職場や学校で、一番多く、体験されているケースではないでしょうか?
話せば話すほど、対立点が浮き彫りになるから、かえって、話しづらい。
そんな場所では、意見を分かち合える人物が欠如しており、いやでも孤独を感じさせられてしまうはずです。
孤独を感じるときこそ、一人を生きる原点に立った証拠です
結論からいうと、
孤独を感じるときこそ、一人を生きる原点に立った証拠となります。
かつて、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーが語った言葉に、つぎのようなものがあります。
「われわれ人間は、たがいに誤解しあう程度に理解しあえれば、十分だ。」
ですから、上記の3つのケースのうちで、
3.知っている人の中にいるのに、ひとりだと感じるとき
の状態に身を置いている方は、つぎのように捉えなおすことができないでしょうか?
たしかに、周囲の人たちと価値観が決定的に異なり、なんとか、苦し紛れにでも作り笑いを浮かべて、世間話ぐらいなら合わせる自信はあっても、そんな人たちとは、話し込めば話し込むほど、誤解が生じてしまう可能性が高いと思うことも、たびたび出くわすシーンではあります。
そんなときには、無理して近づきにならずに、適切な距離感をもつことが大事です。
そして、もしあなたが孤独だと思ったら、とりあえず、自分の魂しかない状態になっているので、これをよい機会と捉えて、日々、自問自答してみましょう!
それは、なにも、かっこよい哲学問答集のような体裁が整っていなくても全然かまわないのです。
日々、内面にわきあがる疑問を、ひとつずつ、検討して、答えを与えていくだけの作業です。
だれかに説明したりはしなくてよいので、かんたんですね?
このようにして、孤独に立ち止まっていないで、どんどん魂を掘削して深いところまで降りていくと、どうなるか?
地下トンネルから掘り進んで、つまり、単身で、魂との会話を重ねて、独自の道を進んでいき、地上に出たときには・・・
かつて、あなたが、悩みで凝り固まっていたころとは決定的に異なる、明るい日差しを見ることになるでしょう。
これは、気取ったたとえ話ではありません。
孤独だったおかげで、未知の可能性を切り拓いた人は、有名・無名にかかわらず、たくさんいます。
かくいうわたしも、かつてはその一人であったかもしれません。
願わくは、現在、孤独を感じて思い悩んでいる方は、
「孤独を感じるがゆえに、魂を直視できる機会に恵まれており、いつか必ず、孤独を突き抜けた境地に立てるのだ。」
と理解して、現在の苦境を乗り越えていってほしいと思います!!