【スピリチュアル】スターシードには「ワンダラー」と「ウォークイン」の2種類が存在する!! 映画『K-PAX 光の旅人』から、スターシードの生き方を探る
- 【スピリチュアル】スターシードには「ワンダラー」と「ウォークイン」の2種類が存在する!! 映画『K-PAX 光の旅人』から、スターシードの生き方を探る
- そもそも、ウォークインとは、何?
- いきなり、テレポーテーションで出現
- 実際にいるウォークイン
- ワンダラーとウォークインは、決定的に異なる
- 動物としゃべれるのは、宇宙人の特徴か?
- ラストは、故郷の星に帰る
ウォークインの悲劇、というキーワードから、あなたは何を連想しますか?
わたしなら、これを思い出します。
そう、あの、イアン・ソフトリー監督の手になる、心温まる映画『K-PAX(ケー・パックス) 光の旅人』です。
これは、完全に、現実を下敷きとした作品ですので、SF作品にカテゴライズするには相応しくないといえるでしょう。
この映画は悲劇のようであり、しかし優しさも込められていて、観る人の感性しだいで受け止め方も変わってくるでしょう。いずれにせよ、現実にいるウォークインを鮮やかに描出してやまない、隠れた名作です。
あらすじは、 次のとおりです。
(映画作品の内容を紹介していきますので、展開について知りたくないという方は、当記事については、見ないことをおすすめします)
ある日、光とともに、ニューヨークの駅の構内に、突然降り立った謎の男。
プロートと名乗るその男は、
「国家も仕事も家族もない、K-PAXという惑星から来た」
と主張し、精神病院に収容されます。
しかし、彼は、ふつうの患者とはあきらかに違う高い波長を持っており、周囲の人たちや医師でさえ手に負えない患者たちの笑顔を、次々と取り戻していきます。ある種の奇跡が訪れたかのような陽気な雰囲気が、病院全体を包み込んでいきます。
その不思議なパワーで人の心を癒す姿をまのあたりに見た担当の精神科医パウエルは、最初こそ宇宙人の存在を信じなかったものの、プロートと会話を重ねていくうちに彼の言葉に惹かれ、宇宙人肯定派に変貌していきます。
ところが、その後、医師パウエル宅で、事件が起きます。
外出を許されたプロートが、その場面で、
(1)もとの地球人時代に経験した、ある悲惨な事件の記憶
と、
(2)あとから身体に入ってきた宇宙人の意識
が混乱して、パニックを起こしてしまいます。
人前で騒動を起こしてしまったプロートは再び危険人物、異常者扱いを受け、精神病棟に閉じ込められてしまうのでした。
「やはり、彼は、エイリアンではない。空想癖のある、危険な存在なのではないか・・・」との烙印が押されます。
その後、プロートは、医師パウエルに、
「自分は宇宙に帰る。ただし、希望する人間を一人だけ連れて行くことになるだろう。」
と伝え、その日付を予告し、病室に閉じこもります。
はたして、病棟の監視ビデオに残された、予告された彼が故郷の惑星と主張する「K-PAX」への帰還の瞬間の映像と、その後の結末や、いかに・・・?!
というのが、この映画のあらすじです。ウォークインの悲劇について共感力をもって描いた、スターシードなら一度は観ておきたい映画に仕上がっています。
そもそも、ウォークインとは、何?
ウォークインは、何らかの理由で、これまでの生き方を変えたいと願う地球人の呼びかけに応じて、その人の魂と交換が行なわれる現象をいいます。
日本語にするとわかりづらいため、具体的なたとえを、次に挙げてみましょう。
★ある地球人が、前途に絶望し、これまでの生き方を改めたいと願う。
場合によっては、死ぬ覚悟さえも抱いている。
⬇
★そこに、宇宙から、地球人の身体に魂ごと乗り移り、地球人として暮らす希望を持つ宇宙存在が、名乗りを上げる。
⬇
★このマッチングが魂の領域で認定されて成立すると、地球人の身体に、宇宙人の魂が入れ替わるように入ることになる。
このような流れが、ウォークインの解釈です。
余談ですが、参考になるので、初代ウルトラマン(西暦1966年の初代の作品)について、ここで、触れてみたいと思います。
初代ウルトラマンでは、第1話で、ウルトラマンが地球に逃げてきた宇宙怪獣をUFOで追跡していたとき、日本の科学特捜隊の隊員として調査を行なっていたハヤタ隊員の操縦する飛行機と衝突し、ハヤタ隊員が死を迎える状況になります。
申し訳なさを感じたウルトラマン(巨大化していない、霊的な形を取っている)は、そこで、瀕死の状態のハヤタ隊員にテレパシーで語りかけ、生き返らせると同時に、ハヤタ隊員にウォークインして、地球を守りたいという意思表示をします。
この申し出をハヤタ隊員が、身体は死に近く動けない状態において、魂のレベルで受け入れ、「緊急時には、ウルトラマンとして巨大化して現れる = 変身する前は、地球人のハヤタ隊員として、そのまま科学特捜隊の一員として暮らす」という生き方を、新たに始めます。周囲には、その正体を隠している、というシナリオの原点が、この記念すべき第1話で、形成されています。
そして、最終回となった第39話では、ウルトラマンは、最強の宇宙恐竜ゼットンに倒されてしまいます。地球での戦闘で、ウルトラマンが死んだ事実を、遠く離れたウルトラの星で知った兄であるウルトラマン・ゾフィーは、彼が乗ってきたUFO内部にウルトラマンを収容し、そこで生命を回復することになります。
このとき、ハヤタ隊員の身体は、もともとの「地球人・ハヤタ隊員」に返し、一方のウルトラマンは、UFO内部で蘇生されたのち、故郷であるウルトラの星に帰ることになるのです。
この第1話と最終回における一連の重要な場面にしても、たんなる空想の産物などではなく、ウォークインに対する一定の理解が根底にあって製作されたことは、ほぼ間違いありません。
「ウルトラマンなど、昭和の特撮作品は、ただの子ども向けでしかない」とあなどっては、重要な視点を見落としてしまうことになってしまいます。
このウォークインの視点で、昭和の特撮の傑作である「ウルトラマン(1966年 製作)」を見なおしてみると、おもしろいかもしれません。
いきなり、テレポーテーションで出現
さて、話を映画『K-PAX』に戻しましょう!
いきなり主人公がテレポーテーションで、ニューヨークの駅に出現するシーンから始まるこの映画は、劇的な映像やコンピュータグラフィックスで印象操作を演出するようなものではなく、ウォークインの悲しき運命を、しかし、心温まるタッチで演じているところを特筆するべきでしょう。
何も知らなければ、予備知識なく観ると、ハリウッド特有の特撮&CGが全篇を覆い尽くすのではないかと予想しがちです。
しかし、ここでは内面描写が繊細に施されていて、そこに心静かに注目するべきです。観る側の人間も、外面的な効果ばかりに眼を奪われていては、ウォークインという宇宙現象を深く理解するに到らずに鑑賞を終えてしまいかねません。
後述しますが、この映画のラスト付近の場面は、ウォークイン現象を知らないと、「意味不明の映画を観て時間を費やしてしまった」と嘆く結果になるでしょう。
事実、20年ぐらい前のAmazonに書き込まれた多くのレビューでは、その点を理解していない解釈が多く、
「主人公は妄想患者で、自分が宇宙人だと勘違いしており、宇宙人は、存在しなかったことを伝えたい映像作品であった。」
などと、それこそ、感想を書いている側の致命的な勘違い解釈によって、本作品を駄作であるかのように貶める書き込みも、少なからず見受けられたものでした(現在は、削除されているものが多い)。
肝心かなめのラスト付近のシーン(=クライマックス)では、
「ウォークインは、魂の入れ替わり現象で、宇宙と地球を瞬時に往復できる」
という現実を知らない人が観ると、上記のような勘違いをしかねない場面になります。
けれども、この点の解釈さえ誤らなければ、「宇宙人がいて、ウォークイン=魂の入れ替えという現象がある」という一貫した映画のテーマを堪能できるのです。
宇宙人が実在していることを自然に肌で直観できる人や、ワンダラー、ウォークインといった単語を熟知している人でなければ、終始意味のぼやけた映画にしか見えないのかもしれませんが、ここを訪問されている方であれば、問題なく理解されることでしょう。
実際にいるウォークイン
アメリカでは、自称ウォークインの方が、たくさんいらっしゃいます。
公的な研究対象にもなっているほどですから、そのように、さほど勇気を要せずに「わたしは宇宙人(ウォークイン)である」と公言できる文化圏を、アメリカでは形成しているようです。
ウォークインはアメリカに偏在する理由はなく、日本も含めて世界各国に散らばっているとみられるものの、なぜかアメリカに密集しているのは、研究機関が積極的に取り上げているからだと思われます。
「自分は宇宙人である」などと、ほんの冗談に口にしただけでも明日の保障がないような国家であるならば、 だれもが口を閉ざすでしょう。
わが国はといえば、ビー〇たけ●氏が、年末のバラエティ番組で、わずかに取り上げてきたのみで、それも、真剣に宇宙人を議論するにはほど遠い内容でしたから、市民レベルで「ウォークイン」現象を解明してみようという機運は、いっこうに盛り上がりませんでした。
そのような文明開化の真逆を行く「科学的な」世界観に閉じこもってきた日本の宇宙人観のなかにあって、「宇宙人がいる」、ないしは「自分は宇宙人である」宣言をした人物は、ことごとく、精神異常とみなされて、施設へと収容される運命にありました。
アメリカとはずいぶん事情が異なる日本では、実際にいるウォークインの方も、なかなか自身の出自を公言しにくい環境に耐えて生きてきており、一刻も早く、公的な機関における研究対象として取り扱い、公式に認定していただきたいものです。
しかし、そのまえに、人類の大量覚醒が起きれば、外部の権威筋に「認定していただく」状況にならず、自然と「ウォークイン」現象が共通認識となって、公式筋のほうが「認めざるを得ない」状況の逆転現象が見られる可能性もあります。
また、現に、西暦2022年時点で進行している局面は、まさにそれだといえるでしょう。
外部に認めてもらわなくても、アセンションについては各自で自由に取り組めます。「ワンダラー」なのか「ウォークイン」なのかについても、審査があるわけでもなく、自信を持って認識を深めていけば、気がついたら、おのれの道を切り拓き、高みに到達していて、もはや他者の承認を得てからでないと新しい行動に出られないといった生き方を脱しているあなたを見つけるでしょう。
アセンションは、いったんスタートしたら、たとえ一時的に停滞時期があったとしても、けっして後戻りしないといわれる性質があるので、このあたりは、良識を持って普通の地球人の暮らしをこなしながらも、スピリチュアルな方面にかんしては、独力で変幻自在に道を開拓していくべきなのです。
ここに来られている方は、このサイトに到達している事実だけでも「独力で道を開拓している」ことになると思いますので、今後も、その姿勢を忘れないで継続し、自身の魂の成長をたのしむとよいでしょう。
ワンダラーとウォークインは、決定的に異なる
さて、この映画では、「ウォークイン」が主人公として設定されています。
しかし、現実に地球にいる「ウォークイン」の割合は、かなり少ないと言われています。
その代わり、「ワンダラー」と呼ばれる存在が、地球上では圧倒的多数を占めているのが現状です。
ワンダラーとウォークインは、決定的に異なります。
それは、簡潔に言えば、次のようになります。
①ワンダラー:
人間の胎児が生まれる前に、宇宙人の魂が融合し、地球を進化させる目的で、人間の姿で生まれてくる。
②ウォークイン:
人生に絶望した地球人が、宇宙にSOSを発信し、その信号をキャッチした宇宙人と合意の上で、魂を入れ替えが行なわれる。しかし、周囲からみると、もとの地球人と容貌は変わらないが、「以前と比べて、急に人格が変わった」と明白に感じられる。
というように、 ワンダラーとウォークインとは、驚くほどに、違うのです。
先にも言いましたが、割合は、ワンダラーが多いので、ここに来られる方の多くも、ワンダラーに該当するのではないかと予想して記事を書いてきました。
もし、あなたが、ウォークインであれば、いますぐに惑星間航行する方法を科学的に説明できるはずです。(できなくても、全然、問題ありません。地球最高の地球人の科学者でも、説明不能です。ただ、ウォークインかどうかを調べる手がかりになるというだけです。)
そのような宇宙時代の記憶の名残がない場合は、やはり、ワンダラーの特徴と一致していて、ゆるやかに、心の故郷がここ(=地球)以外に確実に存在しているという揺るぎない信念を持っているとしたら、ほぼ疑いなくワンダラーだと断定できるでしょう。
「スターシード」と、ひとくくりにして語られることが多い昨今の情勢ですが、上記のように、スターシードには「ワンダラー」と「ウォークイン」がおり、前者のほうが数の上では圧倒的に多いようです。
さて、
ここまでみてきて、あなたがスターシード自覚者だとして、「ワンダラー」なのか、「ウォークイン」なのか?
どちらだと思いますか?
もちろん、どちらがすぐれているかという観点ではありません。自分自身をまず知ることが重要だからです。
漠然と「自分は、世界に馴染めないから、異星人かもしれない」と感じても、それだけの認識では、人生の目標設定すら困難な状況ですから、やはり、どちらなのか、しっかり見抜くことから始めてください。だれかに教えてもらう設問ではありませんから、最終的には自身の直観が決めることになります。
また、「自分は、異星人には関係ないと思うが、地球人として、アセンションに興味がある」という方がおりましたら、それについても、ご自身でそう思われるのなら、おそらくそれが正解なのでしょう。
「ワンダラー」や「ウォークイン」のみがアセンションするわけではなく、むしろ地球人たちと協力して、新しい時代を開拓していくのが、今回のアセンションの基本概念となっており、比較の領域ではありません。自己認識として、自分が何者なのかを知るべきだということです。
動物としゃべれるのは、宇宙人の特徴か?
この映画の主人公が、初対面の犬(ゴールデンレトリバー)と会話する場面が、さりげなく挿入されているのを見落とす人のほうが圧倒的に多いと思われます。
たしかに、地球人でも、愛玩動物として飼っている犬やネコと、気持ちを通じ合わせることはいくらでもでき、そのような事例は枚挙にいとまが無いほどだからです。
しかし、ワンネスを常識としている地球以上に進化した惑星からの使者ならば、たとえ種族が違っても、平気で会話できることを淡々と表明している場面であるのです。
この地球という惑星は、分離、分断することによって、個別の体験を突き詰めていくという側面では大変スリルに富む反面、社会全体の調和としては、たいへん多くの難題がその帰結として発生してきます。
わたしたちは、進化の過程にあり、分離、分断をやめて、統合と調和の時代に収斂していく体験を重ねているところなのです。これが現在地点ということになります。
ラストは、故郷の星に帰る
映画のラストでは、主人公の「自称・宇宙人」が故郷の星に帰る展開になります。
しかし、このとき、SF的な映像を期待すると、必ずや失望に終わるでしょう。
ここでは、彼が、ある少女と消える瞬間を、彼が収容されている精神病院内に設置されたカメラが捉えていました。捉えたと言っても、直後に映像が乱れており、はっきりと確認できません。
ところが、医師たちが駆けつけたときには、人間の「彼」だけは残っていて、乗り移った宇宙人の魂(=アストラル体。地球上の概念でいうところの肉体を持たない状態)と、その少女だけが消えている場面が出てきます。
ですが、幼くして地球での暮らしに希望を見失い、「プロートといっしょにK-PAX星に行って暮らしたい」と心中を告白していた、孤児院から移ってきた少女が、(扉が閉ざされて脱出できないはずの)病院の部屋から消えていたために、プロートが主張していた、「西暦1996年7月27日を最後に、地球を去り、故郷の惑星に帰る」という発言は、事実であったと合点がいくのです。
ここが全体で最も重要なポイントですが、スピリチュアルやアセンションをまったく知らない人からすると、ここで、さきにみたような誤解(妄想だった、等)が生まれてしまうようです。
ウォークイン現象が現実にあり、なおかつ、そのメカニズムを知っていないと、この場面は、
「少女は、なぜ消えたのだ?」
「なあんだ、主人公は地球に残ったままではないか。しかも、しゃべれない状態になっている。ただの妄想だったのか。」
という消化不良の感想に終始してしまうのも、うなずけます。
じっさいは、次のように解釈できます。
②ウォークインした宇宙人が、帰還を予告した1996年7月27日に、宇宙人の魂(アストラル体)が地球人の肉体から去って行き、もとのしゃべれない状態の人間に戻ってしまった。(ネタバレになるので詳細は書けませんが、ある悲劇的な事件に遭遇して、ショックのあまり、それ以降、口がきけなくなったという設定になっています)
と、①~③の解釈を補えば、このクライマックスの意味深長な場面は、科学的に非合理だ、との批判も当たらなくなり、納得のいくエンディングにつながると考えられるのです。
そこを理解したとたん、この映画は、われわれの心に、新しい常識の定着を予感させ、悲劇ではあるが、心温まるストーリーであると再認識させてくれる、隠れた傑作と呼ぶにふさわしい作品であると確言できるようになるわけです。
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