悩めるスターシードたちよ、いまこそゲーテと会おう!! 【いきいきと生きよ ゲーテ編】
- 悩めるスターシードたちよ、いまこそゲーテと会おう!! 【いきいきと生きよ ゲーテ編】
- 偉大な先達の智慧を借りよう
- 昭和の語り部、登場!!
- 18~19世紀のヨーロッパの時代精神、および昭和を生きた人間の息吹までを網羅
- 心に響く言葉
- 書かれた時代が古いことを忘れさせる
- リレーである
- 魂は、無限に成長するのか?
- 強く生きるために
- 【さいごに】
肉体の衰えは、自分の番が来るまでは、どうしても他人ごとのように映ってしまうものです。
しかし、いざ、それが来たときに、わたしたちの所有物の中で、まだ成長する可能性を秘めているものは、「魂」しか、残されていません。
魂だけが、無限に成長する可能性を秘めていると言えます。
そこで、享楽に身を任せて生きてきたり、他人のせいにばかりして切り抜けてきて、魂の成長をおろそかにしてきた自覚のある人間にとっては、老化とは、ことによると、死よりも恐ろしく映る可能性さえあります。
反対に、魂の養いに力を注いできた人には、それ相応の報奨が用意されています。
もはや、肉体は衰えゆくという悟りから、いざ自分の老化が始まったのを感じると、
「今度は、最低限の身体の養いをしながら、魂の道に、没入すればいい。」
と、切り替えを早期に行うことが出来るからです。
それだから、「年を取っても、若々しい」という表現は、別段、矛盾する表現でもないし、気取った逆説的表現でもありません。
偉大な先達の智慧を借りよう
しかし、頭では分かっていても、いざ行動する段になると、どうしていいかわからず右往左往してしまうのが、わたしたちの特徴でもあります。
そこで、詩人の登場です。
ドイツの詩人、ヴォルフガング・ゲーテ(1749-1832)です。
彼こそが、魂の人であったことを証明するのは、だれもが認めるところです。
というのも、「年を取っても、若々しい」という表現がぴったりなのが他でもない、この人ゲーテであったことは、これまで世界中で、どれだけ多くの人たちが指摘してきたでしょう?
それを考えると、いまさら、証明するまでもなく、ゲーテこそが、魂の達人だったというのは、疑いようのない事実でしょう。
彼は、政治にも参加していましたし、その詩的な文芸作品は広汎にわたり、ひとつひとつを取り上げて語るのは至難の業です。
ましてや、お国はドイツ(ワイマール公国)で、時代は18世紀から19世紀前半。
現在の21世紀からは想像もつかない時代。
馬車が走り、一般の通信は郵便のみ、もちろんテレビも、パソコンも、救急病院も、ブログなどの情報源も、何もなかった時代です。
時代も、場所も、はるか遠く離れた、現代の日本で、はたして、いかな天才詩人としてもてはやされたゲーテとはいえ、時代遅れではないのか?
そのような疑問が生じて、当然でしょう。
昭和の語り部、登場!!
そこで、昭和の語り部の登場です。
時代は日本においてさかのぼり、昭和の熱烈な語り部が、熱く語ります。
手塚富雄氏(1903-1983)といえば、わが国では高名なドイツ文学の研究者でした。
この方の、翻訳以外での代表的な作品といえば、
「いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ」
という、ゲーテの言葉を小説や詩や劇作から引用して、燃えるような情熱的な解説で綴った、小さくも巨大な作品です。
これは、昭和の時代には、講談社新書シリーズで、販売されていました。
しかし、21世紀に入ってからは、いったん廃刊になり、最近では、ハウツー本のシリーズで名高い、サンマーク出版から、文庫サイズで出版されています。
注意1:
(その後、サンマーク出版の文庫本は絶版になり、現在では、昭和に販売されていた講談社刊の新書もしくはKindle版しか入手できなくなっているようです。)
ゲーテの作品の中では、圧倒的に恋愛短編である『若きウェルテルの悩み』にばかり、通俗的な人気が集中しています。ですが、神髄はそこにはないと思われます。
もっと重要な秘儀が覆い隠されてしまう、というのが正解に近いでしょうか。
18~19世紀のヨーロッパの時代精神、および昭和を生きた人間の息吹までを網羅
多作なゲーテの作品をいちいち読んでいる時間的なゆとりは、現代人にはないでしょう。
かりに、時間があっても、ゲーテの本ばかりは読んでいられないのが、一般人の所感ではないでしょうか?
そのようなわれわれを指南してくれる、さきに挙げた、手塚富雄氏による
「いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ」
の出番が、ついにやって来ました。
この作品を通読したら、ゲーテの生涯を、18~19世紀のヨーロッパの時代精神、および昭和を生きた人間の息吹まで、一気に学び取れるという、お得な作品に仕上がっています。
わたしも、当ブログで、この作品のように、時代精神を簡潔に読者の方にお伝えできれば、とひそかに願いながら書いておりますが、できているのでしょうか?
日々、謙虚に手塚富雄氏の姿勢を見習いたいと思う今日この頃です。
(この記事内では、ブログ管理者が現在保有している、サンマーク出版の文庫本から引用しています。しかし、これは現在入手不能のようです。2022年時点では、各通販を利用して、講談社新書のみ、入手が可能となっています。)
心に響く言葉
ここで、前掲の「いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ」という作品の雰囲気をお伝えするために、いったんわたしの説明を中断して、作品そのものから、一部を引用させてもらいましょう。
1.
こころが開いているときだけ
この世は美しい。 (「格言詩」)
上掲の句のあとでも、「おまえの心がふさいでいたときには、おまえは何も見ることができなかったのだ」と言っている。そういう反省があって開かれたかれの心と眼に、人生と自然の生動する姿が映ったのであろう。
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.13より、引用 しました )
普段、あまり意識していない、心と世界の関係について、ゲーテの詩に、手塚富雄氏が解説を付したものです。
これは、まさに、言い得たり、と思われる部分ではないでしょうか。
意識して、つまり、能動性をもって、心を世界に開くように努めるのでなければ、世界はいつまで経っても、わたしたちにとって異邦人であり続けるというわけです。
2.
阿呆、燃えているなら消せ、
燃えてしまったのなら、また建てろ。 (詩「報告」)
ゲーテのオプティミズム(楽天主義)と現実性のよく出ていることばである。苦情ばかり言い、他人の攻撃ばかりして、自分は何もしない空論家とは、かれはまるで性が合わない。
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.14より、引用 しました )
だれかに背中を押してもらいたいときに、このゲーテの力強い言葉を思い起こすとよいでしょう。
言い訳はあとにして、まずは、失敗しても、傷口を最小限にとどめるためにも、なすべきことを優先してやりなさい。問題が解決してから、熟慮すればいいのだ、ということなのでしょう。
書かれた時代が古いことを忘れさせる
それにしても、昭和の語り部は、熱い。
この原稿が書かれた年は、1968年ですけれども、たったいま、さっき書かれたばかりのように、情熱が込められているのに気づくはずです。
「これって新刊かな・・えっ、マジ?! 1968年の作なの?」
みたいな気分にしてくれます。
たしかに、書かれた時代が古いことを忘れさせる力が、ここには、ある・・・
情熱は死なない。
まさに、それを証明しているかのような、「生きている」書物です。
ゲーテの魅力をお伝えするために、ふたたび少しばかり、引用してみましょう。
3.
いったい自分は、この宇宙万有に向きあって何ものであろう。
自分はその前に、またその中心に立つことができるのだろうか?
これは、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』において、主人公のヴィルヘルムが天文台にのぼって、澄みわたった夜空の壮観の下でみずからに対して発した問いである。
その天体の壮大さは、もう壮大の域を通り越して、われわれには理解できぬものとなり、われわれを滅ぼさんとしているのである。
(中略)
ところで、ヴィルヘルムはこの自問に対して、どう答えたであろうか。
しばらく考えたあとで、かれが自分に言ったことばの中核は、次のようである。
「・・・・・・人間がこの無窮の宇宙に対する道は、次のことをおいてありうるだろうか。すなわち、多くの面に分散されるすべての精神力をその心の内奥において、一つの中心点をめぐって総括することだ。・・・・・・」
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.45-46より、引用 しました )
ここでは、ドイツ・ロマン派の教養小説の最高傑作として名高い、ゲーテ作の『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』から抜粋されています。
「教養小説」とは、教養を身に付けるための小説という意味ではなく、ひとりの主人公が、さまざまな人生体験や挫折を積み重ねながら、人間として立派に成長を遂げていく姿を描いた物語のことをいいます。
若い劇団員として、ヨーロッパを旅しながら劇を上演していた主人公のヴィルヘルムは、ここで、ちっぽけな人間の存在と対比して、無限に映る宇宙に対する畏怖の念を吐露するとともに、自分なりの見解を自問自答の末に獲得していく姿を、ゲーテは的確に描いています。
このような場面を知って、現代を生きるわたしたちは、自分の悩みが、かつて一度も、だれも体験しなかった悲劇と錯覚して嘆かずに済むことになるでしょう。
古代から、暗黒の中世を通して、近代、そして現代にいたるまで、人間は成長を遂げる過程で必ず多くの内面的な課題に直面しては、それを乗り越えていくという、地道な作業を日々営んできた事実を忘れてはなりません。
リレーである
もともと、たった一人の人間さえ理解するのは、とても難しいです。
そうです。たった一人の人間でさえも、われわれは、一生をかけても、理解することはできないでしょう。だれもが経験則から知っていることです。
それは、相手も、時間の経過とともに、刻一刻と変化をやめないし、観察しているつもりの自分も同じく刻一刻と変化をやめない存在だからです。
このように、わたしたちはいつも、ある人の全生涯をどうやって俯瞰したらいいのか、という難問に突き当たります。とくにゲーテのように多彩な方面で活躍した万能人を、どう解釈するのか。
それに対する解答の一つが、さきほどの著作になります。
18世紀から19世紀のドイツに生きた詩人の心を、ドイツ文学研究の碩学(せきがく)の昭和の男が熱く解説する・・・
本当に、わたしたちは、思い上がって、ひとりで生きているなどと考えてはならないのだと、この昭和から引き継がれたゲーテ通の人物の著作を通して、感じないわけにはいかないでしょう。
すべては、谷川俊太郎さんの詩のようにあり、朝も、人類も、リレーなのです。
流転する世界の流れの一瞬間に登場しているのが、わたしたちひとりひとりなのです。
魂は、無限に成長するのか?
ここで、ゲーテも手塚富雄氏も、発言した年齢が、60~80歳という人生の完成期に集中しているとは、信じられません。
たとえ肉体は衰えていこうとも、魂だけは、死ぬときまで、向上し続ける、立派な証しとなるのではないでしょうか?
もちろん、若さだけに依存して、魂の価値を高めていない人は、そうならないでしょうが。というのも、そのような人は、一般的に魂自体を否定するか、魂というものを感じていても、自分でそれを育まないので、いっこうに魂は成長しないからです。
老齢に到ってなお、このように、五欲でない、若々しい感受性を発揮して、後世の人々を鼓舞できるというのは、かっこよく映るものですね。
そのような意味において、魂は、無限に成長する可能性を秘めている、ということは、真実だと思います。
なかなか、現代人には時間がないので、このようなまとめられた著作を使って、感じ取ることは、非常によい方法だと、わたしは思っています。
願わくは、わたしたちに老いが到来しても、泰然としていられるばかりではなく、魂の無限の成長を信じて、ゲーテや、手塚富雄氏のように、みずみずしい心をもって、最後の時を迎えれることができたらいいですね。
そして、おそらくは、令和に生きる若者たちの心に届けと願っている(天界に住まいを移して久しい)ゲーテからのメッセージを、激動の昭和を生きた日本人の独文学者・手塚富雄氏の心を通して、時空を超えて、より多くの若い人々に受け取ってもらいたいと思います。
強く生きるために
混沌の時代を強く生きるために、ドイツが誇る詩人ゲーテの智慧を簡潔にまとめた詩句を引用しましょう。
4.
わたしは人間であった。
というのは、戦って生きてきた者だということだ。
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.80より、引用 しました )
『西東詩集』の「天国の巻」からの一句です。
自己の輪郭があいまいになったとき、人間としての基本姿勢が呼び起こされる表現になっています。
簡潔で力強い。
彼は、俗世間にどこにでもいるような口舌の徒ではなく、実際家として真剣に生きてきたため、そのことば自体は平凡でも、異様な情熱がこめられて響いてきます。
5.
敵があるからといって、わたしは自分の価値を低く考える必要があるか。
(『温順なクセーニエン』)
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.194より、引用 しました )
この表現も、今日性(こんにちせい)秘めたものとなって、われわれの胸に迫ってきます。
付け足す言葉も、差し引く言葉も、どこにも見当たりません。
読み手に生きる勇気を吹き込むのが、詩人の生命線であると、このゲーテの言葉が雄弁に物語っています。
敵があるのは、自分に非があるからではなく、自分の行いや思想に価値があり相手が嫉妬している場合が多々あります。謙虚に言動を顧みて、自分に落ち度がないと確信できるときは、このことばを思い出して、内心で、堂々としていましょう。
6.
「迷い」ということを能動的な意味で摑んだ最も有名なゲーテのことばは、『ファウスト』第一部の「天上の序曲」にあるそれである。
人間は努力するかぎり迷うものである。
このことばの発展性が、いつもわれわれに力をあたえてくれるのである。
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.55より、引用 しました )
どんなに前向きに生きても、人は迷うものです。だれにでも経験はあるでしょう。
そのつど、自信をなくし、落ち込んで、これでよかったのか不安がよぎる。
しかし、ここで、ゲーテは、新しい局面に出くわし、それを必死に解決しようとして迷うのは、はずかしいことではなく、むしろ、努力して前進している証しなのだから、そのまま、迷いを突破するまで、迷い続けていなさい、と力強くあと押ししてくれているのです。
7.
わたしにはこれ以上の苦痛はあるまい。
天国にただひとりでいることより。
(詩「ことわざ風」)
( 『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』手塚富雄 著 サンマーク文庫 2008年3月10日 初版印刷 P.56より、引用 しました )
ここでゲーテが言っているのは、アセンション後の天国的世界ではありません。3次元しか勝負の世界がないと考えられていた、18~19世紀のヨーロッパ圏での価値観です。
しかし、われわれも、アセンションを十分に意識しながら、どうしても、3次元限定での価値に染め上げられた舞台で活動しなくてはならない局面があり、そのときにどうするかの指針として、ゲーテのこのことばは、3次元に立ち向かっていく覚悟を決めるうえで、非常に貢献してくれます。
現代のわたしたちは、この先に地球の運命を知っているために、偉人といえど過去の人と見做しがちです。
けれども、やはり、ここはまだ3次元の古い名残をとどめている地球でもあるので、指針が必要です。まさに、ゲーテは、過去の人ではなかったのが如実に判然とする詩句ではないでしょうか?
UFOや宇宙人が実在することを知っており、自身がスターシードかも知れないと自覚しながら、アセンションに日々取り組むわたしたちの心を鼓舞することができる人間を、「過去の人」と呼べるでしょうか?
ゲーテという人間は、肉体が滅んでからすでに200年近くが経ちますが、こうして、彼がことばに託した魂は、現代においても、いきいきと生きているのです。
彼が言いたいのは、困難にぶち当たって、嘆いたり、逃げ回るより、思うように生きてみなさい、と、勇気を吹き込んでくれているのです。
さらに、わたしたちが現在知っているのは「途中で倒れても、5次元に救済される生き方」さえしていれば、救済されるという点です。スターシードだった音楽家のモーツァルトが、事実そうでした。
ですから、そのように俯瞰してみれば、あとは果敢に、現世の諸問題を正面から受け止める気概が、自然に湧いてくるにちがいありません。
★モーツァルトが書いた『田園交響曲』と、スターシードの死後の運命★
ただし、ここで、昭和の時代によく見かけられたような精神論を説いているつもりはありませんので、誤解しないでください。
自分の育った時代を美化することはせず、むしろ、スターシードは「疲れたら、休む」が基本であるとの趣旨の記事を、少し前に投稿しています。それとバランスを取る意味で、調子の出てきたときには、ゲーテのことばから霊感を受けて、3次元に挑むのもまた、素晴らしいのではないか、という提案に過ぎません。
そのあたりは、そのつど、ご自身の心身の健康状態を見極めて、臨機応変に行くとよいでしょう。
★地球の次元上昇に向けて、スターシードも、「疲れたら、休む」が基本です!★
【さいごに】
今回は、ドイツの詩人・ゲーテを取り上げて、たいへん読みやすく仕上がっている『いきいきと生きよ ゲーテに学ぶ』という作品とともに、魂の成長というテーマで、考えを深めてみる旅でした。
全体に、とても勇気づけられる詩的な句が、情熱的でわかりやすい解説で綴られているのが、この作品の特徴です。
最後に、このゲーテから手塚富雄氏、そしてブログを執筆している管理者のわたしに連なる願いについて、かの楽聖ベートーヴェン風に言えば、こうなるでしょう。
「願わくは、心より出で、心に帰らんことを!!」
(歓喜の歌で知られる第9交響曲と並ぶ、古今の宗教音楽で最高傑作と言われる『荘厳ミサ曲 ニ長調 作品123』の出版に寄せてスコアに書かれた、ベートーヴェン直筆の、神秘的な言葉)
このようにして、人類は、数々の迫害にもめげずに綿々と、心からの真実を、時代を超えて語り継いできたのでした。
この先の展開において、人類の未来が輝かしくなるように祈りながら、筆を擱きます。
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