【世にも美しい波動の上がる音楽 19】 青春を感じさせるロマン派音楽 『グスタフ・マーラー 交響曲 第1番』で、さわやかに次元上昇しよう! + 諦観あふれる『大地の歌』
- 【世にも美しい波動の上がる音楽 19】 青春を感じさせるロマン派音楽 『グスタフ・マーラー 交響曲 第1番』で、さわやかに次元上昇しよう! + 諦観あふれる『大地の歌』
- マーラーの生涯
- 第9のジンクス
- 曲の成り立ち
- 実際に聴いてみる
- 最後は、どんなふうに終わる?!
- この曲がアセンションに向いている理由
- まとめ
青春の刻印を受けたロマン派音楽とは・・・。
わかりやすい音楽の代表として、グスタフ・マーラー(西暦1860~1911、チェコ)が作曲した『交響曲 第1番』を挙げましょう!!
わたしたちの忘れかけた青春を取り戻す。
歳月を経てそれを再解釈し、新しい定義づけを試みることにしましょう。音楽とは、つねに魂との新たな対話をもたらしてくれます。
わたしたちの歩んできた道とは何だったのか?
人間は、ただ年老いて、肉体の消滅とともに消えてゆくのか?!
いえいえ、そうではありません。
プラトンが語ったように、魂は永遠であり、アセンションした先にこそ、真の青春の息吹にあふれた世界が待っているのではないでしょうか?
マーラーは、ユダヤ人だったので、キリスト教とユダヤ教のどちらに属するべきなのかについて本気で迷っていた時期があり、そして、若いときから死の想念にとりつかれ、人間の死後の復活を信じようとするため、キリスト教的な復活劇を下地に『交響曲 第2番 ハ短調 「復活」』を書きました。
この交響曲は、ベートーヴェンの第9交響曲のフィナーレをお手本にして作られ、しかし、マーラーの独自性も発揮させ、最後の場面では「死と同時に人間の魂は天に帰り、そこでよみがえるのだ!!」と合唱隊による歌唱で力強く歌われて結ばれます。
しかしそこでは、世界平和(=現代のアセンションを予知していた?)を確信して書かれたベートーヴェンの第9交響曲とはちがって、マーラーの場合、死後の復活を心底から確信していたというのではなく、自身の信念のおぼつかなさ、つまり、ほんとうに死後はあるのだろうか、いや、虚無しかないのではないか、という揺れ動く不安な気持ちや、病気に対する恐怖心が、つよくありました。
やがて、マーラーは『交響曲 第6番 イ短調 「悲劇的」』を完成させますが、この曲の終わりは、異例のもので、曲の主人公の死によって終わります。悲劇に襲われた主人公が死ぬように終わるもので、それゆえの「悲劇的」というタイトルが付いています。結局、マーラーは、第2番「復活」で自身に確信を持たせようとした死後の復活を信じ切れないままでいた証明をすることになってしまうのでした。
また、古代中国の孟浩然などの詩を用いた、ほとんど交響曲といえる巨大な作品『大地の歌』(西暦1908年、死の3年前の作品)では、「告別」と題された終楽章で、孟浩然および王維の詩が滔々(とうとう)と歌われます。
この第6楽章「告別」だけで、全体(約60分)の半分にあたる約30分の演奏時間をかけて、人の世の無常と自然の永遠とを対比させて歌い上げるさまは圧巻です。
ここでの無常観は、西洋の音楽の基礎の上に、東洋の歌詞(古代中国の詩)が歌われ、銅鑼(どら)の音までが鳴るという本格ぶりで、さきにみた、キリスト教とユダヤ教のあいだを揺れ動く、マーラーの繊細で微妙な心理をあぶりだすかのような作風ではないでしょうか。
西洋には、自分の探している答えは見つからないという直観から、マーラーは東洋の思想に傾くようになっていました。『大地の歌』で一貫している無常観は、西洋の一神教の思想から生まれるはずがなく、人生の回答らしきものを探し求めていくうちにマーラーがたどり着いた、必然の境地とも言えるでしょう。
それは、ドイツの作家で、平易な文体ではあるが、ノーベル文学賞を受けてもいる作家・詩人のヘルマン・ヘッセ(西暦1877~1962)の場合も、同じように、ヨーロッパ文化を基盤とした創作活動だけでは最終回答は得られないとして、いわゆる「西洋疲れ」から、やがて東洋の思想に耽溺していくのでした。
この点については、わたしたちは、日本にいるわけですから、日頃から無意識下に東洋の思想を体験しているので、西洋の彼らとは反対に、適宜、西洋の思想や音楽を取り込んでいくと、ひじょうにバランスのよい感受性が身につくのではないでしょうか。
究極には、アセンションが近いため、西洋か、東洋か、の二元論で比較している時期にはありません。洋の東西がどうのこうのという段階はあっさりクリアして、種類の異なる動植物や、異星人たちとの交流を念頭に置いて暮らしていかなくてはならないのですから。
さいわい、動植物たちは、すでに波動を高めてわれわれのそばにいますし、異星人にしても、以前に投稿した記事にある長編(全61話)ドラマ『ロズウェル 星の恋人たち』に登場する、みかけは地球人そっくりの善良な異星人たち(マックス、マイケル、イザベルなど)を映像作品にふれて心の準備をしておけば、いくらでも、この3次元で魂の進化を遂げることは可能なのです。
さて、そのようなわけで、この『大地の歌』のいちばん最後の部分だけ、どうしても聴いてほしいと思いますので、ご紹介しておきます。
タイトルにある『交響曲 第1番』に先立ってまで、試聴する価値があるほど、この世のものとは思えない美しさがあるからです。
そして、東洋の思想に魂の救済を求めていくようになったマーラーの二面性は、わたしたちスターシードの「地球人/宇宙人」のあいだを揺れる心理と重なるところがありますし、きっと共感できると思います。
◎下記のAmazonプライムミュージック(加入された方のみ)から、上から6番目、あるいはいちばん下といってもいいのですが、演奏時間が、30分26秒のものをクリックして、長いので、時間の経過を示すバーを、次に示すタイム(27分07秒)までマウスとポインターで進ませて、そこからお聴きになってください(たったの、約3分間です!!)。
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マーラー作曲『大地の歌』(=実質、交響曲)、第6楽章(フィナーレ)から、最後の部分(約3分間)だけでも、ぜひご試聴ください!!
【解説】
第6楽章(Amazonの上記アルバムのいちばん下で、タイムが、30分26秒)を選んでください。
しかし、ここで最後の部分(約3分間)にスクロールするまでに、そこに到るまでの内容をざっとご説明しておきます。
まず、【0分00秒~ 27分06秒】で、次のとおりに要約される歌唱があります。この部分は、今回は、大意のみのご紹介です。時間があるときにお聴きください。
歌詞はドイツ語で歌われます。本格的に鑑賞されたい場合は、多くのCDでは、逐語訳がついていますので、そちらをお買い求めになり、一字一句を照らし合わせながら聴くと、曲のテンポが遅いために、聞き取りが容易です。
【0分00秒~ 27分06秒】 要約
山の彼方に太陽は沈み、夜になった。月は、しろがねの船のように、空に浮かぶ。
小川は夕闇に心地よいせせらぎの音を響かせ、大地も深い眠りに落ちんとしている。
人生に疲れ果てた人間は、家路につく。忘れかけた幸福の色と若さとを、ふたたび思い出そうとして! 小鳥も枝の中にうずくまり、世のすべては眠る。
そして松の木陰で、わたしは、友人を待っている、最後の別れを告げるために。
彼(=友人)は馬に乗って来て、そこから降り、別れの杯を差し出した。
彼は、わたしに言った。
友よ、ぼくは、この世で幸福を得ることを断念した。この孤独な心は、山に入って癒やされるしかないだろう。
安住の地は、はたしてこの世にあるのだろうか?
いや、それが求められなくても、かまわない。遠い国々をさまようまでもなかろう。心静かに、自然に抱かれて、最後のときが来るのを待とう・・・と。
こうしたほの暗い気分が歌われてから、オーケストラによる ① 27分07秒~ 27分45秒 で、希望を表す上昇音型が、②に向けた気分的な橋渡しとして、示されます。
それに続き、音楽はほのかな愁いを含みながらも一気に明るくなり、 ② 27分46秒~ 29分08秒 からは、最後の歌唱に変わり、循環する自然の永遠を賞賛しながら、消えるように美しく閉じていきます。
それでは、各部分を聴いていきましょう!!
① 27分07秒~ 27分45秒
管楽器で、ゆるやかな上昇音型が出てきます。
この上昇する音型は当時のヨーロッパ音楽界では、「希望の音型」といわれていました(この記事内で、後述します)。
まさに耳で聴いていて、そのとおりの(希望が湧いてくる)音型だと思います。もちろんここでは、はかない人間の命に比べて、自然は永遠に輝き生き続けることを暗示していて、そして願わくば人間の死さえも永遠にめぐる自然の循環のなかで受け止められて再生をはたすという、おぼろげな感傷も(上昇音型に)漂わせています。
これに続き、最後の歌唱に移ります。
② 27分46秒~ 29分08秒
古代中国の詩人(孟浩然【もうこうねん】および王維【おうい】)の詩が、ドイツ語で歌われます。
みずからの死を覚悟し、その友人が山にさまよい出るとき、② 27分46秒~ 29分08秒 で、さきにみた内容(要約)に続いて、次の大意をもつ歌唱が登場してきます。
しかし、(自分がこの世から消えても)なつかしい大地よ、春になればまた至るところに、花々が咲き乱れるだろう!!
新たな自然の生命、緑が萌えいずることになるのだ。見はるかす限り、どこまでも、永遠に青く輝くだろう、(永遠に、永遠に・・・)
という内容が(原詩のなかで)詠まれ、人の世の無常観を受け入れつつ、自然の永遠の美を讃えます(じっさいに演奏で歌っているのは、女性の声です)。
しかし、ここ(②)での旋律は、すでに第6楽章の中間部で登場した音型であり、いわば予告された旋律として、最後の場面で活用されているのです。
また、ここでは、歌唱の背景でハープの奏でる分散和音が、音響の流麗さを支えています。
③ 29分09秒~ 30分26秒(最後)
オーケストラの間奏が終わると、「ewig」、読み方は「エーヴィヒ」となり、日本語で「永遠に」を意味するドイツ語の単語が、ひたすら独唱によってくり返されます。
永遠に、という語句が歌われる背景で、チェレスタ(=トライアングルの音色のように聞こえる打楽器)が彩りを添え、最後のチェレスタが鳴り響くと(30分16秒)、深い余韻を残して消えていきます。
※最後の楽章の最後の部分、29分09秒からは、少しだけ、音量を高めないと聴き取れない部分もあるかもしれません。ですが、そのままの音量で、次の曲を再生してしまった場合、音量で耳を傷める可能性もありますので、くれぐれもご注意ください。
★じつはこの『大地の歌』① 27分07秒~ 27分45秒 の音型は、マーラーの師匠であった作曲家、アントン・ブルックナー(西暦1824~1896)が世界的に認められるようになった出世作である『交響曲 第7番 ホ長調』の第1楽章冒頭やコーダ(およびフィナーレのコーダの最後の部分などで使われる音型)からとられています。
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◎上記をクリックすると、曲が表示されます。
(1)
ブルックナー『交響曲 第7番 ホ長調』第1楽章(いちばん上で、【21分26分】となっているもの)の冒頭【0分00秒~ 2分26秒】までが、息の長い第1主題(部)なのですが、上昇音型がいちばん聴き取りやすいのは、【1分13秒~ 1分22秒】の部分です。
(2)
同じく、ブルックナー『交響曲 第7番 ホ長調』第1楽章(いちばん上で、【21分26分】となっているもの)のコーダ(終結部)【19分55秒~ 21分26秒】を聴いてみましょう!
まず第1楽章の【19分55秒】に合わせてください。ここからが、コーダになります。
少し曲が流れて【20分48秒~ 21分26秒】の部分で、上昇音型が聴かれるでしょう。
この部分は、ブルックナー『交響曲 第7番 ホ長調』のなかでも、もっとも美しく壮麗な箇所です。
(3)
また、第4楽章(上から4番目または、いちばん下で、【11分37秒】の楽章)の、【10分35秒】までスクロールさせると、そこからがコーダ(終結部)の始まりになります。
第4楽章の【10分35秒~ 11分37秒(最後)】が、コーダです。
最初のうち【10分35秒~】は、第4楽章の第1主題が扱われ、これ自体がすでに快活な上昇音型を含んでおりますが、さらに第4楽章の【11分07秒~】は、さきほど(1)および(2)で紹介した上昇音型(まったく同一ではない)が登場し、3度、トランペット等の金管楽器を中心にくり返し回想され、荘厳で盛大な終結部を迎えます。
上記の(1)(2)(3)と、『大地の歌』① 27分07秒~ 27分45秒 の音型を聴き比べてみてください!
クラシック音楽が作曲された当時の語法を知るのに、とてもわかりやすい箇所だと思うのですが。
この曲(ブルックナー『交響曲 第7番 ホ長調』)は、とても完成度が高く、形式も、第1楽章はソナタ形式、第2楽章は5部形式のロンド、第3楽章は三部形式または複合三部形式のスケルツォ、第4楽章は変則ソナタ形式と、ほぼベートーヴェンの時代に書かれた交響曲の構成に近く、形式的には古典的といえるもので、演奏時間は約60分ですけれども、たいへん聴きやすい作品です。
作曲されたのは、西暦1883年と、ベートーヴェンが最後の交響曲『第9』を書いてから、およそ60年後の作品です。
ブルックナーは、ベートーヴェンやワーグナーをことのほか尊敬しており、曲の雰囲気や勝利のように終わる点ではベートーヴェンに似ており、トランペットやトロンボーン、チューバなどを多用してブラスバンド風の壮大な響きを曲に持ち込んだ楽器法においてはワーグナーと共通しています。面白い発見があるかもしれません。
また、作曲途中で尊敬していたワーグナーの訃報(西暦1883年、ワーグナー 享年70歳)を聞いたブルックナー(当時59歳)が、第2楽章のコーダ(終結部)にチューバの低音による葬送音楽を書き加えたことで知られる名曲でもあります。
もし時間があれば、ブルックナー作曲『交響曲 第7番 ホ長調』について、単独で取り上げたいのですが、とりあえず今回は、マーラーの『大地の歌』の参考としてご紹介しておきますので、ぜひ、聴いてみてほしいと思います。
★ほかにも、モーツァルトが死ぬ直前まで書いて絶筆となった『死者のための鎮魂曲(レクイエム)』(西暦1791年作曲者死去のため未完で終わるものの、その後弟子たちが補完して完成)でも、「ラクリモサ(=その日こそ、涙の日)」の、まさに絶筆となる直前の音型が、これと同じタイプの上昇音型になっています。
ここでは、死後の浄化を願って天に昇る魂を表した音型だといわれています。
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◎上記をクリックすると、曲が表示されます。
ここで、上から8番目の曲(3分09秒)が、「ラクリモサ」で、ラテン語の歌詞が歌われます。その日は、涙に暮れる日、主よ憐れみ給え、そして死者たちに永遠の安息を与えてください、と祈りの歌詞が捧げられます。
ここの【0分24秒~ 0分48秒】が上昇していく音型で、モーツァルトが死の直前まで書いた音楽になりました。それから先は、弟子のジュースマイヤーらが師匠の死の後を受けて書き上げました。
この【0分24秒~ 0分48秒】と、『大地の歌』第6楽章 ① 27分07秒~ 27分45秒の音型を聴き比べてみてください。
モーツァルトの『死者のための鎮魂曲(レクイエム)』から、「ラクリモサ」の【0分24秒~ 0分48秒】でも、マーラーの『大地の歌』第6楽章 ① 27分07秒~ 27分45秒でも、ともに死に向かっていく者のための音楽でありながら、希望を求めて音が登り詰めていく点は、はっきりと共通していると聴いてわかるはずです。
スピリチュアルでも、人間は死で終わるのではなく、その先に向けて登り詰めているのだという考えが主流です。
死に際にあったモーツァルトの脳裏をかすめた一段一段と上昇していくような音型『死者のための鎮魂曲(レクイエム)』から、「ラクリモサ」の【0分24秒~ 0分48秒】、それにマーラーが東洋の詩に託した諦観あふれる終楽章のなかでも希望を抱かせる音型『大地の歌』第6楽章 ① 27分07秒~ 27分45秒は、やはり、人間の他の生き物も、その肉体の死によってすべての物語が閉じられていくわけではないという彼らの深い直観的な洞察があったのは、たしかでしょう。それは死後の復活の願いというよりも、実感のこもった現実的な感覚だったのかもしれません。
また、『死者のための鎮魂曲(レクイエム)』から、「ラクリモサ」の【2分50秒~ 3分09秒(最後)】の部分は、合唱で、アーメン(=そうでありますように)が唱えられて終わります。堅苦しく考えずに、短いので、ぜひ聴いてみてください。モーツァルトが死と格闘しながら書いた最後の部分だというのは、何かしら心を打つものがあるはずです。
モーツァルトのレクイエムにかんしては、不思議なエピソードがあります。
それは、西暦1791年の春、モーツァルトは、灰色のコートをまとった見知らぬ人物の訪問を受けました。
その人物は、「大至急、死者のための鎮魂曲(レクイエム)を作曲してほしい。報酬はたんまりと支払うことを約束する。詳しい事情は言えない。そして、誰が依頼したかも言えない。」とだけ語り、契約履行の意思を表明するため頭金を支払うことにして、そのまま去って行きました。
当時、35歳だったモーツァルトは貧困と不調にあえいでおり、その依頼に不可解さは感じたものの、よい仕事が舞い込んできたと前向きに受け止めることにしました。
その時期には他の作品の作曲をこなしていたこともあり、レクイエムの作曲に着手できたのは、その年の夏の終わりにさしかかった頃でした。
しかし、その年の11月、モーツァルトの体調はさらに悪化し、レクイエムの「ラクリモサ(その日こそ、涙の日)」の8小節目までを書いたところで作曲を続けられなくなり、12月5日、ついに帰らぬ人となったのでした(あるいは、スターシードとしては、使命を果たして故郷に帰還した、というべきなのでしょうか)。
結局、モーツァルトは、自身のためにレクイエムを書いた形となってしまいました。本人も、体調を崩してからは特に、その予感を持っていたようです。依頼主が正体を明かさないままレクイエムの作曲を注文し、大金の契約を締結して頭金を支払った後、そのままとなり、自身の身体が衰弱していくのですから。モーツァルトとしても、不安な感情が湧いてきて、実際にその予感は的中することになったのでした。
モーツァルトの死後、弟子たちが未完成のレクイエムを補完して仕上げたのち、いまだに匿名の注文主の手になんとか楽譜が渡るようにして、モーツァルトの妻で未亡人のコンスタンツェは、西暦1793年には、残りの契約金全額を受け取っていたようです。
謎が解けたのは、西暦1800年代に入ってからでした。
レクイエムの楽譜の出版作業が進んでいくうちに、ひとりの人物が「それは、わたしの書いた曲である」と主張してきました。彼はヴァルゼックという名の貴族(伯爵)で、西暦1791年2月に亡くなった自身の妻のために、盛大な葬儀を計画し、そのときに「自作のレクイエム」と称して、モーツァルトに書かせた『レクイエム』を演奏しようと考えたのでした。
そのために、伯爵は正体を隠し、モーツァルトのところに匿名で使者を送ることにしていたのです。モーツァルトのもとに現れた、灰色のコートをまとった人物とは、その伯爵の家来でした。そして、じっさいに、ヴァルゼック伯爵は、その曲を西暦1791年12月14日(=モーツァルトの死の10日ほど後)に、みずから指揮をとり、自分が作曲した音楽だとして、妻の追悼のためにモーツァルトと弟子たちの合作である『レクイエム』を演奏していたのでした。
もちろん、楽曲自体はモーツァルト作だとして解決はみたのでしたが、波乱に満ちた終わり方ではあります。
毒殺説もささやかれるモーツァルトの死はこのように不思議なシンクロニシティに満ちていて、多くの人々の興味をひくことになっていくのですが、やはり、モーツァルトの心中を察するに、何かしら不穏な事態が訪れる予兆を感じ取っていたにちがいありません。
モーツァルトは、スターシードであり、あまりにも多くの業績を「急いで」達成してしまったために、いち早く、故郷の惑星に帰還できたのでしょうか?
それを、わかりやすく予告するために、周囲の人物を巻き込んで、シンクロニシティのように、ヴァルゼック伯爵のような人物が現れ、モーツァルトに死が近いとの予感を与えるような、灰色のコートをまとった匿名の使者をよこしたのでしょうか。
さて、大幅に話が横道に逸れてしまいました。マーラーの『交響曲 第1番』に戻りましょう。
このような二面性は、当サイトを訪問されているスターシードと思われる方にはおなじみの観念だと思われます。つまり、地球人と異星人であった過去世が混濁して、独特の生きにくさを作り出している状況に酷似しているのではないかという面が、わたしたちと作曲家マーラーをつなぐ大きな共通点ではないかと考えられるのです。
このように、結局は、諦観にまで到らずに、生と死とを行き来する不安定な心理を反映したかのような作風のマーラーでしたが、それもまた彼の音楽の魅力でもあります。
結局、われわれみなが、確実に達観して生きることは困難であり、死後の世界を確信できない点についてマーラーひとりを責めるわけにはいかないからです。しかし、『交響曲 第1番 ニ長調』を仕上げたときのマーラーは、まだ若く、厭世観も曲ににじみ出ていません。
さて、さまざまな思いを逡巡させる機会として、そろそろマーラー作の『交響曲 第1番』にふれてみることにしましょう!
ここでは、全曲中で最も美しい第1楽章を中心に、みていくことにします。
マーラーの生涯
グスタフ・マーラー(西暦1860-1911)は、チェコに生まれた、後期ロマン派に属する作曲家です。
劇場の監督や、指揮者などの激務をこなすかたわら、作曲も並行して行なっておりました。
マーラーは生真面目な性格ではありながらも、多少神経質で、妥協を許さず激しやすい面もあったため、劇場の支配人らと時折衝突し、自分のほうから辞表をたたきつけて辞任していくなど、3次元的な意味での生きにくさや不器用さを示すエピソードが数多く残されています。
さらに、マーラーにはユダヤ人の家系の血が流れており、本人のアイデンティティにも甚大な影響を及ぼしていました。ユダヤ教を崇拝するべきか、それともキリスト教で通すべきなのか、本人も生涯悩み続けたのでした。
また、マーラーの若き日には、兄弟が若くしてみずから命を絶ち、さらには40代でようやく妻アルマを得、幸せな結婚生活を夢見るも束の間、愛娘を病気で失うなど、さまざまな家系的な悲劇を体験していたのでした。
さらに、マーラー夫人のアルマは、20歳近くも年齢がマーラーよりも若く、しだいにお互いの気持ちに距離が出てくるようになり、やがてアルマに責任がある不倫騒動が発生してきます。マーラーは非常にショックを受けます。
結婚後まもなく、マーラーは心臓や内臓疾患の病気が判明していたこともあって、その後、多忙な仕事、娘の死、不倫騒動、そしてみずからの病状の悪化傾向が進行し、かずかずの不幸を抱えながらも作曲を続けますが、西暦1911年、『交響曲 第10番 嬰ヘ長調』を完成しないまま、享年51歳でこの世を去ることになります。
マーラーの作曲家としての業績は、歌曲と交響曲にあります。
そして、完成された9つの交響曲は、基本的には古典派から受け継いだ調性音楽で、構造も、ソナタ形式やロンド形式を採用していると解釈できるものの、しかしながら構成としては、かなり複雑になっていきます。
いずれも壮大なスケールの音響を誇り、長いものでは、演奏時間が、100分を超える作品も登場します(『交響曲 第3番 ニ短調』など。この作品では、第1楽章だけで、30分を超えるのが標準です)。
第9のジンクス
フランツ・シューベルトと同じく歌曲の作曲に通じていたマーラーは、ジンクスや病気を極端に恐れる傾向を持っていました。
マーラー自身にとって、第8番目を数える交響曲を書き終えたとき、マーラーの脳裏から決して離れなかった事実は、偉大な先達であったベートーヴェンをはじめとする交響曲作曲家たちの多くが、交響曲を「第9番」まで書いたあとに、他界しているというジンクスでした。
そこで、マーラーは一計を案じることで気休めをします。
それは、次作『大地の歌』については、事実上、交響曲に匹敵する作品であるにもかかわらず、あえて、「第9番」という数字を与えずに(そうすると、マーラー自身にも不運や病が襲ってくると考えたため)、番号を付さずに、たんに『大地の歌』としたのでした。
ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザークといった偉大な作曲家たちが相次いで、交響曲を第9番まで仕上げたあとに他界しているという不吉な数字の【第9番】を避けた、というわけです。
ところが、運命とは皮肉なものです。
その後、マーラーは、いつまでも交響曲に「第9番」の名称を与えることを避けてはいられないと考え、新しく完成させた交響曲に、前作『大地の歌』では外した「第9番」の称号を与えました。
それからまもなく、マーラーはいち早くジンクスを脱するためにも、『交響曲 第10番 嬰ヘ長調』の完成をめざして作曲にとりかかります。しかし、心臓の疾患が深刻化し、治療のかいなく、結局、着手していた交響曲第10番を完成することのないまま他界するという、じつに皮肉な運命をたどるのでした。
マーラーが当初恐れていた予感が的中し、自身も『交響曲 第9番』で終止符を打ち、ベートーヴェンらとともに後世から「交響曲を第9番まで作曲した偉大な作曲家」のひとりに名を連ねるという、何とも悲劇的な、ドラマティックな結末となりました。
これが、クラシック音楽界で知られている「第9のジンクス」の概要です。
曲の成り立ち
『交響曲 第1番 ニ長調』は、西暦1884年から着手され、西暦1888年に完成されました。
この頃、マーラーは、28歳で、ハンガリーの劇場で音楽監督の任務を果たしておりました。念願だった音楽監督の地位に就き、意気揚々とした青年マーラーの手によって4年がかりで生み出された、好感の持てるさわやかな旋律が印象的です。
この『交響曲 第1番』は、年齢も20代だったこともあって、非常に晴れやかな、青春を感じさせる素直な作品で美しい素朴なメロディーが散りばめられているので、マーラーを最初に聴くには、とても良好な作風になっているといえるでしょう。
マーラーの交響曲について全体的にみると、構成の面では、その多くは伝統的なソナタ形式等に基づき書かれています。が、たくさんの楽器を用いて、演奏時間も長大になってきました。
たくさんの楽器とは、カウベルや大太鼓、トライアングル、銅鑼(どら)など、オーケストラにさまざまな新登場の楽器を用いたことでも知られています。また、舞台裏に第2のオーケストラを配置し、音響に遠近感を出すための革新的な工夫も試みています。
しかし、であるにもかかわらず、音響そのものは緻密で、室内楽的ともいえる響きをもたらしています。これは、旧ソヴィエトの作曲家、ドミートリ・ショスタコーヴィチと同じ傾向で、対位法や音楽理論にすぐれているため、多くの楽器を一度に鳴らしても、音が混濁しないという、技術上の理解に長けていたためと考えられます。
ここでは、グスタフ・マーラーの全交響曲中でも最も人気の高い部類に属し、ロマン派の音楽を代表する、さわやかな歌の心で描かれた『交響曲 第1番 ニ長調』の世界をご堪能ください。
なお、この交響曲は、作家ジャン・パウルの小説『巨人』からモチーフが採られています。主人公の若者(男性)が、人生体験や挫折を通して人間的に成長していくさまを描いた、いわゆる教養小説で、マーラーは当初、この交響曲に『巨人』という副題を付けました。
ですが、かえって、聴衆に要らぬ先入観を与えてしまい純粋な音楽鑑賞の妨げになると感じるようになり、マーラーはすぐに副題としていったん付けた『巨人』を撤回してしまいました。
現在では、この曲に関して言えば、マーラーの音楽の純粋な価値だけが残る結果となっています。そのため、現代に生きるわたしたちも、これを標題音楽のように鑑賞しないで、純音楽として聴くほうが新鮮かつ感動的であり、正しい理解が得られると思います。
実際に聴いてみる
この曲の正式名称は、『交響曲 第1番 ニ長調』です。
先に見たとおり、副題として当初付されていた「巨人」は、誤解を招くおそれがあるので、外してよいと思います。
また、14分30秒の曲ですが、ゆったりとした弱音の序奏を除くと、10分少々ですし、また、テンポが快速なため、演奏時間がぜんぜん長く感じられない魔法のような音楽です。
このあたりは、マーラーの若いながらも熟達した書法のおかげであるでしょう。
ぜひ、再生ボタンを押してみましょう。堅苦しく構えず、ちょっと静かすぎてさびしいときに、BGMがわりに、流してみるぐらいでよいと思いますよ。
Amazonミュージック・アンリミテッド(Unlimited)で選ぶときは、
①まず、検索窓に、「マーラー 巨人 ロンドン ボールト」と入力する。
「マーラー」「巨人」「ロンドン」「ボールト」の中間には、それぞれ、全角で1文字分の空白(スペース)を打ち込んでください。
②「楽曲」の右端にある「すべてを表示」をクリックし、演奏家を探す場合、「ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 サー・エイドリアン・ボールト」、曲名は、「マーラー 交響曲 第1番「巨人」」を選ぶ。
イギリスのオーケストラは、録音にかけてはその数も膨大で、コンサートホールも充実しており、この演奏も、それを証しするかのように名演となっています。
③第1楽章がどれかわかりにくい場合は、演奏時間が、「14分30秒」となっているものから探し、選んでみる。
演奏時間 : 14分30秒 (第1楽章)
曲の形式 : ソナタ形式
ニ長調
①序奏 : 0分00秒 ~ 3分09秒
②提示部 第1主題 : 3分10秒 ~ 4分44秒
③提示部 第2主題 : 4分45秒 ~ 5分13秒 (コデッタを含む)
(リピート)
④提示部 第1主題 : 5分14秒 ~ 6分46秒
(リピート)
⑤提示部 第2主題 : 6分47秒 ~ 7分10秒 (コデッタを含む)
⑥展開部 : 7分11秒 ~ 12分46秒
⑦再現部 第1主題 : 12分47秒 ~ 13分52秒
⑧再現部 第2主題 : 13分53秒 ~ 14分11秒 (コデッタを含む)
⑨コーダ(終結部) : 14分12秒 ~ 14分30秒
◎では、つぎに詳細にみていきましょう!
①序奏 : 0分00秒 ~ 3分09秒
★弱音の下降動機から始まり、それはオーボエとファゴットで示されます。第1主題にたどり着くまで、模索を続けます。
②提示部 第1主題 : 3分10秒 ~ 4分44秒
★チェロによって、希望にあふれた主題が歌われます。これは、「朝の野辺を歩けば」という作曲者マーラー自身の歌曲から引用された旋律です。途中、鳥たちの美しい鳴声を模したパッセージが木管楽器に登場します。
③提示部 第2主題 : 4分45秒 ~ 5分13秒 (コデッタを含む)
★まず木管楽器を中心に、喜びが爆発したようなメロディーが奏でられます。
④提示部 第1主題(リピート) : 5分14秒 ~ 6分46秒
★古典派の音楽作りに敬意を払ってか、律儀に②の部分のリピート(反復)が入ります。
⑤提示部 第2主題(リピート) : 6分47秒 ~ 7分10秒 (コデッタを含む)
★同じく、③のリピートとなります。この第1楽章では、可愛らしいトライアングルの音色が鑑賞できますが、リピートの指示があることによって、じっくりと音響に没入できる時間が約束されているとも言えましょう。
⑥展開部 : 7分11秒 ~ 12分46秒
★穏やかな調子で、序奏の旋律、鳥の鳴き声を模した音型、第1主題などが自由に組み合わされ、再現部に向かいます。低音部の執拗なバッソ・オスティナートが入り、再現に向けて、ひとつのクライマックスを築いていきます。
この展開部の最後の音型は、終楽章(第4楽章)のコーダの直前で、ふたたび登場してきます。マーラーは交響曲全体が一貫性のある意味づけが行われるように設計していたのです(この記事内で後述しています)。
⑦再現部 第1主題 : 12分47秒 ~ 13分52秒
★第1主題が回帰しますが、とても短い印象があります。輝かしく陽気な調べが支配しています。
⑧再現部 第2主題 : 13分53秒 ~ 14分11秒 (コデッタを含む)
★第2主題の再現部が前回より華やかに装飾され、音響も強大になっています。
⑨コーダ(終結部) : 14分12秒 ~ 14分30秒
★コーダというよりも、たんなる小結尾との位置づけで、直前の「⑧再現部 第2主題」こそが、この楽章のしめくくりをなす真のコーダのように響くほど、あっさりと閉じられます。
これは、この交響曲じたいが、最終楽章(第4楽章)のコーダで音楽的な勝利を強調する効果を上げる設計で書かれており、それゆえ、最終楽章の効果が、かすんでしまうことのないように、あえて第1楽章の終わりの部分では、長いコーダを付けず、目立つような盛り上げ方を採用しなかったのではないかと推測できます。
しかしこの曲は、ロマン派の音楽としては、全体的に暗い影のない、青春そのもののさわやかな音楽として聴かれるでしょう。
★たしかに、出だしの序奏の部分だけは音量が小さいので、つまらなく感じる可能性もありますけれども、提示部の第1主題【3:10~】からは、俄然、明るくなりますので、序奏部分が終わる3分09秒までは、じっくりと待ってみてください。
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◎第1曲目が、今回の交響曲のおすすめの「第1楽章」になります。
これ以降は、次のような形式になっています。
第2楽章 三部形式 イ長調
第3楽章 三部形式 ニ短調
第4楽章 変則的なソナタ形式 ヘ短調 ~ ニ長調
もし、機会がありましたら、全曲を通して、ご堪能ください。
ただし、グスタフ・マーラーの『交響曲 第1番 ニ長調』は、演奏時間が約15分の第1楽章を含めて、全曲あわせて、50~55分程度の演奏時間を要する大曲です。
そのため、時間にゆとりのあるときに、その他の楽章を鑑賞されることをおすすめします。時間のないときは、この第1楽章だけを聴いたり、その他の楽章と小分けにして聴いてみたりするのもよいでしょう。
最後は、どんなふうに終わる?!
といいつつ、第1楽章だけ聴いてさようなら、というのも、心残りな気がします。
最後はいったい、どんなふうに終わるのでしょうか?
せっかくの機会ですから、この曲でいちばん盛り上がる終楽章(第4楽章)のコーダ【終結部】だけ、お聴きください!!
たったの、約4分間です!!
ぜひご鑑賞よろしくお願いいたします。
あなたの人生観が変わるかもしれません!
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◎今回の交響曲の「第4楽章 コーダ【終結部】の直前から」になります。
①第4曲目【18:43】の時間の経過を表すスクロールバーを【14:54】まで移動させてください。
②【14:54 ~ 16:10】
コーダまでの導入部です。じつはここでの音型は、第1楽章の展開部の終わり(再現部の直前)にも登場し、フィナーレを予告していたものでした。
③【16:11 ~ 18:43】
主要主題が組み合わされて最強音で登場する真のコーダは、トランペットを中心とした金管楽器にて、弦やティンパニ(打楽器)に支えられながら高らかに吹奏され、圧倒的なコーダを形成します。
マーラーの青年らしい誇らしげな人生観が、ここに熱く示されています。それはとりもなおさず、わたしたち人類がこの先移行することになる、アセンションの世界観を先取りしたかのような祝典的な風景ではないでしょうか?
これは、日本のオーケストラによる演奏です。
ライブ録音なので、最後に拍手がついているのも、臨場感が湧いてきますね?
この曲がアセンションに向いている理由
『交響曲 第1番 ニ長調』では、のびのびと作曲し、純粋に書きたい曲を書いたという爽快感が漂っていて、まさに年齢的にも青春時代であり、後期の作品群と比べて、聴きやすく、親しみの持てる内容に仕上がっているといえるでしょう。
アセンションをこころざすわたしたちにとっては、マーラーの全作品中において、若々しい音符があちこちに散りばめられている『交響曲 第1番 ニ長調』が、彼の作品中でもとりわけ、より5次元移行のシーズンにぴったりくる音楽のように聴こえてきます。
まとめ
★いかがでしたか?
青春の息吹に満ちあふれた佳作として心地よく響いてくるものがあると思います。
アセンションによって、新しい惑星をめざすわたしたちも、今一度、このグスタフ・マーラーの爽快な曲に接して心の若々しさを取り戻し、新しい仲間たち(善良な異星人種族、宇宙系の動植物、地球からアセンションした動植物、地球における地底世界の邪悪でない存在)とともに、いつか(生きながら)旅立つ日を夢想しましょう。
その夢想も、現実逃避で無く、現実創造の一端を担っているわけですから、むだになるものは何もないのです。
5次元に行くと、ほぼまちがいなく、わたしたちが難儀してきた「生・老・病・死」は、解消されています。まさに、この作品はその日を予感させてくれる音楽ではなかったでしょうか?
もしあなたが魂の不滅性を信じるなら、3次元における身分や容姿に拘泥するのは矛盾を抱えることを意味します。
希望は、すぐそこにあります。
というより、本当に信じる力のある人は、内部に希望の萌芽があるのを感じ取るはずです。音楽によって、あなたの内部に共鳴する何かを感じたら、宝探しはうまくいっています!!
サイト名 : 一人を生きる -希望の彼方に-