【世にも美しい波動の上がる音楽 24】 「ロマンス」という名の穏やかな楽曲で、波動を高め、アセンションに移行する!! ①モーツァルト『ロマンツェ』 ②ベートーヴェン『ロマンス』 ③シュターミッツ『ロマンス』 + ベートーヴェンの遺書、個人的な回想、そして、楽園を超えて・・・ 【プロフィール記事を含む】
- 【世にも美しい波動の上がる音楽 24】 「ロマンス」という名の穏やかな楽曲で、波動を高め、アセンションに移行する!! ①モーツァルト『ロマンツェ』 ②ベートーヴェン『ロマンス』 ③シュターミッツ『ロマンス』 + ベートーヴェンの遺書、個人的な回想、そして、楽園を超えて・・・ 【プロフィール記事を含む】
- ①モーツァルト『ピアノ協奏曲 第20番 第2楽章 ロマンツェ』
- ②ベートーヴェン『ロマンス 第2番』
- ③シュターミッツ『クラリネット協奏曲 第3番 第2楽章 ロマンス』
- 個人的な回想、そして、楽園を超えて・・・ 【プロフィール記事を含む】
今回の特集は、作曲者自身から「ロマンス」と名付けられた楽曲で、心を癒すし、波動を上げる試みです(この後、曲名などで登場する「ロマンツェ」は、「ロマンス」のドイツ語圏の表現で、基本的に「ロマンス」と同義語です)。
一人の方でも、そうでない方でも、運命というものはいつも困難を伴ってやってくるように見えます。そんなとき、古典派音楽家の書いた楽曲「ロマンス」で、心温まるロマンティックな夜を迎え、癒しを受け、波動を上げることができたらと考え、記事化してみようと思いつきました。
音楽における「ロマンス」とは、抒情豊かな表現を盛り込んだ曲想のものをさし、おのずと胸に響くやさしさが込められた、聴きやすい旋律美を誇るのが通例です。
しかし、聴いただけでロマンスを感じるクラシック音楽などが、ほんとうにあるのだろうか、きっと、いまのあなたはそうお感じになっているかもしれません。
いいでしょう。それを、これから解明していきましょう!!
きっと、聴き終わるころには、「ほんとうに、聴いただけでロマンスを感じるクラシック音楽が、あった!!」と叫んでいることでしょう。
今回の記事につきましては、かりにクラシック音楽に興味がない方でも、後半以降から、アヌンナキやアセンション、そして、わたしの個人的な回想(いまさらながらの簡素なプロフィールも含めて)にかんする記述が出てきますので、もし、あなたがスターシードでほんとうにアセンションに興味があるのでしたら、(音楽の箇所を飛ばして)その部分だけでもご覧いただければと思っています。
それでは、いってみましょう!!
①モーツァルト『ピアノ協奏曲 第20番 第2楽章 ロマンツェ』
長いので、タイトルおよび上記の見出しにおける楽曲名を省略しました。以下の曲も同様です。
正式名称は、
『ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466』から、第2楽章 ロマンツェ
となります。
西暦1785年、モーツァルトが29歳のときに作曲されたピアノ協奏曲のひとつで、この曲は、モーツァルトの古典派音楽からロマン派音楽にいたる時代まで(そして、こんにちまで)愛されてきた作品です。
とりわけ、19世紀には、とびきりの人気を誇っていました。
というのも、ロマン派音楽の時代(19世紀の前半あたりから20世紀はじめごろまでとされる)には、暗く激情を含む音楽のほうがより芸術性が高いとして尊重され、そのいっぽうで明るい音楽は蔑視される時代でした。
一部では、モーツァルトのような軽妙洒脱な明朗さを基礎とする音楽を礼賛する者もいたのですが、当時の主流としては、明るさだけでは人生の指針とならず、たえず憂鬱さや悲劇性を持たせたところから出発していなければ芸術作品として深みがないと解釈される風潮が、長く続きました。
したがって、19世紀においてはモーツァルトの音楽の大半を占める、輝かしく生き生きとした旋律は、後世のわれわれからしてみれば不当にも「価値の低いもの」と評価されていました。
そのような時代背景があったために、19世紀の音楽界で、モーツァルトの作品中もっとも人気が高かったもののひとつが、19世紀ロマン派の好みに合致していた、暗く、激情的な『ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466』だったのでした。
モーツァルトの真の価値はその後、20世紀に入ってから、特に戦後に再評価されるようになりました。そうなると ニ短調で書かれた『第20番』、そしてハ短調で書かれた『第24番』などが特に愛された19世紀の事情とはうってかわって、短調と長調の区別なしに、モーツァルトの書いた音楽作品はいずれも水準以上の素晴らしい作品であるばかりか、この世のものとは思えない天国的な音楽、奇跡だと高い評価を受けるように変わっていくのでした。
わたしたちとしては気分しだいで、明るい長調の作品を聴きたくなるときもあり、その反対に、短調でメランコリーに満ちた楽曲に接したいと思う日もあります。なので、19世紀の音楽趣味は、ある意味、病的に暗かったともいえそうです。人間中毒というか、それはやはり、自然から乖離しすぎた文明の弊害のような気もしてくるのです。
それと比べたら、現代の趣味は、健康さを取り戻したかに思えます。モーツァルトのいかなる曲にも、それなりの魅力を感じられるだけの、心のゆとりが出てきたのでしょう。
しかし、これは、すべての人にあてはまるわけではないでしょう。アセンションの行く末を知って、内心から安堵して暮らしていける人に限定された心理だと言えるのかもしれません。
なお、第20番のピアノ協奏曲について、「暗く、激情的」などと書いてきましたが、これは、第1楽章と第3楽章にあてはまるもので、ここでご紹介する第2楽章「ロマンツェ」は、うってかわって、たいへん優雅な音楽です(ただし、中間部ではやや高揚する場面もあります)。
当時29歳で絶好調だったモーツァルトのことですから、そのあたり、両端楽章とのバランスを考慮したうえで、ロマンツェの構成を設計したのでしょう。さらに、そのロマンツェ自体も平板にならないようにと、中間部は対照的な音響としたのではないでしょうか。
モーツァルト:『ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466』 から、第2楽章 ロマンツェ
演奏時間 10分12秒
曲の形式 : 三部形式
ロマンツェ
変ロ長調
①第1部(A) : 0分00秒 ~ 4分42秒
★甘く切ない旋律がピアノによって奏され、その後、オーケストラに受け継がれ、発展していきます。
②第2部(B=中間部) : 4分43秒 ~ 7分40秒
★一転して激しい中間部は、これといった旋律・音型がない、絵画のような印象を残す、革新的な表現に満ちています。
③第3部 (A’) : 7分41秒 ~ 9分09秒
★第1部の主題が、より簡素になって、やさしく回帰します。
④コーダ(終結部) : 9分10秒 ~ 10分12秒
下記をクリックすると、曲のアルバムが表示されます(会員様限定です)。
⬇
◎第2曲目にあるのが、『モーツァルト:ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466』 から、第2楽章 ロマンツェになります。
(Amazon側の都合で、曲の掲載順序は変更される場合があります)
演奏しているのは、内田光子という、モーツァルト演奏に生涯をかけた日本人の女流ピアニストです。1980年代が最盛期と思われ、当時録音したモーツァルトのピアノ協奏曲全集は、世界中から高い評価を得ています。
とりわけ、この『第20番』における、ほの暗い情熱的な楽想を気高く、そしてやさしく表現した歴史的な名演として知られています。第2楽章はイギリス室内管弦楽団のオーケストラも充実しています。
この『第20番』は、ベートーヴェンやブラームスが大変気に入って、自身のピアノ独奏曲やピアノ協奏曲を書くにあたって、研究材料にしたほどです。
ベートーヴェンに至っては、モーツァルトの『第20番』を高く評価するあまり、第1楽章と第3楽章のカデンツァ(=楽章の終わり近く、コーダ(終結部)手前に置かれる、ピアノ独奏部分)を自身がソリストとして演奏するときのために書き残しており、現在も、それが使用されるケースがほとんどです。非常に求心力の高いカデンツァで、この部分だけでも聴きごたえがあります。
②ベートーヴェン『ロマンス 第2番』
ベートーヴェンという名を聞くと、どうしても、不屈の精神を思い浮かべて、曲調も激しさを示しているといった先入観を持ってしまいがちです。しかし、彼の書いたゆっくりしたテンポの曲は、非常に愛らしく、叙情的である場合が、意外にも多いのです。
そんななかでも、この作品は、とりわけ優美な部類に入るものでしょう。
正式名称は、
『ロマンス 第2番 ヘ長調 作品50』
です。
独奏ヴァイオリンとオーケストラのために西暦1798年、ベートーヴェン28歳のときに書かれた曲で、事実上、ヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章のような趣があります。とても聴きやすく、しかし、何度でも再生したくなる慈愛に満ちた旋律は、世界各地で長く愛されていました。
『ロマンス 第1番』も、なかなか麗しい作品なのですが、完成度から言うと、やはり『ロマンス 第2番』のほうが、全体に均整がとれていてよどみなく進むように感じられます。
さて、この曲が作られた、28歳当時のベートーヴェンは、青春の真っただ中にいたのでしょうか?
いいえ、われわれは、そうでないことを知っています。それは、西暦1802年(当時32歳)に書かれた、ベートーヴェンの遺書(=ハイリゲンシュタットの遺書)がそれを物語っているからです。
その遺書にあるように、すでにウィーンを中心に人気ピアニストと作曲家の地位を確立しつつあったベートーヴェンでしたが、20代後半から、難聴に気づきはじめ、もはや音楽家としてやっていけないと思い込みます。しかし、彼は音楽に命を懸けていたから、音楽家として終わることは、すなわち死を意味していました。
ここで、ベートーヴェンの遺書の内容を、短くまとめてみましょう。
「・・・わたしは音楽家として、この悩み(しだいに耳の聞こえが悪くなっている=難聴)を周囲に打ち明けて生きていくのは、何としても耐えられない!
フルートの音色や羊飼いの歌声が、周囲の人たちにはふつうに聴こえているのに、(聴覚がいちばん重要となる、音楽家の)自分にだけは聴こえない、という屈辱的な場面に、若くして幾度となく遭遇してきた・・・
死というものは、自分を終わることのない悩みから解放してくれる、唯一の救いなのではないだろうか?・・・」
(上記の内容は、ベートーヴェンが32歳のときに書いた『ハイリゲンシュタットの遺書』の概要で、全文あるいは一部抜粋ではありません。)
このように、一時は死の覚悟までしていたベートーヴェンでしたが、彼は深く思い悩み、そして内面で神との対話を繰り返したのち、自死を思いとどまり、難聴を抱えながらも前向きに生きる決意をして、復活を遂げるのでした。遺書は、彼の死後に遺品から発見されたのでした。
遺書には、具体的に、難聴がひどくなり、自死を考えはじめたのが「28歳のとき」という表現が登場しており、それゆえ、この『ロマンス 第2番』は、まさに自死が若きベートーヴェンの脳裏をよぎっていたさなかに作曲されたという事実が判明してきます。
ただ青春の渦巻く感情に身を委ねて作曲したのではないのです。われわれはここで、ベートーヴェンが死を想いながら、これほどまでに甘美でロマンティックな音楽を書き上げることができたという点に、感嘆をおぼえずにはいられないでしょう。
モーツァルトはさまざまなチャネリングからスターシード認定されている音楽家ですけれども、当時新進気鋭の音楽家だったのに突如、難聴という運命に襲われ、全生涯をかけてそれを克服していったベートーヴェンも、もしかしたら、スターシードだったのではないかとも思えてきます。
もちろん、ふつうの地球人として生きたから格段に生きやすくなるわけではなく、この地球という星は宇宙人アヌンナキの要求に応じて好条件と引き換えに人類全体の遺伝子操作(それまで動植物と仲良く暮らしていた人類を、遺伝子を間引きして好戦的な奴隷として改悪)を許したアダムとイブのために、ここで生きる全員が困難に直面し、しかもその不幸の本当の原因(=先にみた遺伝子操作の件)を知らず、別なところに原因を求めて家族、隣人、隣国どうしが血みどろの争いごとを果てしなく繰り広げているという、まさに、自分たちで地獄を作り出している状況が、長く続いてきました。
宗教では政治的な民衆操作のねらいで事実が脚色されていますが、多くのチャネラーのチャネリング結果からは、禁断の果実を食べて原罪を負ったというのは、上記の宇宙人アヌンナキと取引して、人類が現在までのような好戦的で自尊心ばかりが強く、人類以外に知能を認めない頑迷さをもつ生き物に堕落したことを意味しているのです。
さて、しかし、そうなると、ベートーヴェンの苦悩は、もはや彼一人の苦悩ではなく、人類全体の苦悩であるとみなすこともできます。彼の最晩年の傑作『第九交響曲』や『荘厳ミサ曲』が、わたしたちをとらえてやまない魅力を有しているのは、まさにそのためではないでしょうか。
モーツァルトは音楽における不世出の天才とされるいっぽうで、ベートーヴェンが音楽の領域における人類の救世主のように言われる理由が、なんとなくわかる気がしてきます。
ベートーヴェンは、いかんともしがたい解決困難な苦悩を、そのまま物理的に治すのではなく、心的、内的経路をあらたに開拓して、あとに続いて生きることになるわれわれのために、苦悩をくぐり抜けて歓喜に到る道すじをその音楽によって力強く明瞭に、ときに(この『ロマンス 第2番』に聴かれる旋律美のように)やさしく啓示したのでした。
音楽を鑑賞するだけで生きる力が得られるわけですから、それを利用しない手はないでしょう。
わたしたちスターシードが中心となって心を愛で満たせば、闇に占領される部分は、そのぶんだけ小さくなっていくのです。それをより多くの人たちができるようになったら、世界は明るくなっていきます。
このように、闇を消滅させる仕組みはいたって単純なのですが、しかし、雑念や執着の多いわたしたち人間(と人間の姿を借りたスターシード)にしてみると、それを実践、継続していくのは、なかなか困難に感じてしまうかもしれません。そこで、音楽の出番なのではないかと。
そんなとき、偉大な古典派作曲家であったモーツァルトやベートーヴェン、カール・シュターミッツの「ロマンス」という名の楽曲群は、わたしたちの心を潤し、闇を退散させるだけのパワーをもたらしてくれるものと確信しています。
とにかく、そのような死の縁まで落ちていってもなお、人間愛に満ちた音楽を書くことができるのだという事実だけでも、わたしたちは強く心を打たれます。
まずは、このような状況を知ったうえで、ご鑑賞ください。
演奏は、ダヴィッド・オイストラフの独奏ヴァイオリンが冴えわたります。
わかりやすいロンド形式のなかに、人間らしい温かみのある情感を盛り込んだ、魂の傑作といえるかもしれません。
ベートーヴェン:『ロマンス 第2番 ヘ長調 作品50』
演奏時間 8分51秒
曲の形式 : ロンド形式 A-B-A-C-A-コーダ
基本的なロンド形式で書かれています。
①A : 0分00秒 ~ 1分36秒
★ヴァイオリンが甘美なロンド主要主題Aを歌い出します。
②B : 1分37秒 ~ 3分15秒
★やや憂いを含んだ副主題Bになります。
③A : 3分16秒 ~ 4分47秒
★美しいロンド主要主題Aが戻ってきます。
④C : 4分48秒 ~ 6分27秒
★副主題Cで、哀愁に満ちたメロディーを提示します。
⑤A : 6分28秒 ~ 7分20秒
★ロンド主要主題Aの三現です。
⑥コーダ : 7分21秒 ~ 8分51秒
★コーダでは哀切きわまりない甘美な旋律で、静かに閉じていきます。
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◎第5曲目にあるのが、ベートーヴェン:『ロマンス 第2番 ヘ長調 作品50』になります。
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フレデリック・ショパンのノクターン(夜想曲)第2番も傑作ですが、こちらのベートーヴェンのロマンス第2番もなかなかロマンティックであり、夕べの音楽を飾るのにふさわしい、情感たっぷりに歌うヴァイオリンとそれに寄り添う絶妙なオーケストラがいつまでも心地よく耳に残る作風ではなかったでしょうか?
晩年に完成した『第九交響曲』についてよく語られる「苦悩を通して歓喜に到れ」というテーマは、実は、『ロマンス 第2番』を作曲した20代後半のベートーヴェンの内部に、早くもその萌芽が認められるように感じます。
ハイリゲンシュタットの遺書にあるように、当時28歳だったベートーヴェンは絶望の淵に身を置きながら、その苦悩を経験しつつ、かくも慈しみに満ちた音楽を書いていたのですから。
③シュターミッツ『クラリネット協奏曲 第3番 第2楽章 ロマンス』
あまり一般には知られていない作曲家である、カール・シュターミッツ(西暦1745~1801、ドイツ)ですけれども、当時の水準以上の作品を多く残した、古典派に属する音楽家のひとりとして評価は高いとされています。
なかでも、『クラリネット協奏曲 第3番』は魅力的な旋律に満ちていて、とりわけ、その第2楽章は、短いながらも美しい楽章に仕上がっています。
この第2楽章も、ロマンスと題されていて、流麗な音型が続きます。クラリネットとオーケストラが恋に落ちたかのような甘い旋律に、恍惚とした境地をさまようにちがいありません。楽器の特徴をよくおさえて、他の楽器群に馴染ませたシュターミッツの作曲技法は円熟の境地に入っていたのでしょう。
正式名称は、
『クラリネット協奏曲 第3番 変ロ長調』から、第2楽章 ロマンス
となります。
シュターミッツ:『クラリネット協奏曲 第3番 変ロ長調』 から、第2楽章 ロマンス
演奏時間 3分12秒
曲の形式 : 三部形式
変ホ長調
①第1部(A) : 0分00秒 ~ 1分00秒
★優美なクラリネットの旋律を、オーケストラの伴奏が支えています。
②第2部(B=中間部) : 1分00秒 ~ 2分04秒
★第1部の主題を変形して、短調で始められる中間部になります。
③第3部 (A’) : 2分05秒 ~ 3分12秒
★ふたたびクラリネットに第1部の主題が現れ、飾り気のないオーケストラの演奏でそのまま終曲します。
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◎第2曲目にあるのが、シュターミッツ:『クラリネット協奏曲 第3番 変ロ長調』 から、第2楽章 ロマンスになります。
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やさしさを凝縮した時間は快適にあっという間に過ぎていきます。クラリネットの特色を最大限まで引き出した、カール・シュターミッツはやはり偉大な作曲家だったと認識を新たにする、そんな作品でした。
個人的な回想、そして、楽園を超えて・・・ 【プロフィール記事を含む】
いかがだったでしょうか?
ロマンス(=ロマンツェ)なる名称のクラシック音楽作品で、心は和やかになったでしょうか。
人種や宗教に関係なく、普遍的な人間愛というのが確固として存在すると確言できるような旋律が、ほとばしるように登場してきました。
さらにその手を広げていって、人間愛から自然への愛、宇宙的な思考様式にまで発展させるきっかけとなってくれれば、作曲者および演奏家たちも、それを以て至上の喜びと感じることでしょう。
わたしとしては、どの曲も魅力的に感じます。
モーツァルトでは、激しい中間部のあとに第3部で再現するピアノによるやさしい主題が、ベートーヴェンでは、冒頭のつややかなヴァイオリンの音色が、そして、カール・シュターミッツでは、一貫して溶け合うクラリネットとオーケストラのまろやかな響きが。いずこにも、天才たちの刻印がなされていると感じます。とても心温まる音楽だったと思います。
なかでも、わたしがモーツァルトの『ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466』をはじめて聴いたのは、まだアセンションや自己の能力について何も知らない、18歳のときでしたから、とても印象に残っています。
1月上旬の、2日間続いた入試の日程がようやく終わってから(二次試験はまだ先だったものの)、レコード店(現在は閉店)に駆け込み、上記の内田光子独奏版のCDを購入しました。高校最後の年の春先からはなるべく音楽を聴かないようにして学業に専念することに決めていて、CDの購入もそれにあわせて控えていました。
久しぶりに買ったCDで聴くモーツァルトの第20番コンチェルトの印象は言葉では言い表せないほどで、特に、第2楽章の音色は、胸に染み入るといった表現がぴったりで、その後も、この演奏を上回るものに出会っていません。
ですがそれは、あくまでもわたしの主観でしかなく、みなさんが同曲を鑑賞されるにあたり、特段の先入観を抱かないようにお願いしたいと思います。ただひとつ言えるのは、この音楽と演奏があったから、その後も生きてこられたという点で、人それぞれに悩みは異なるものですけれども、だれもが心が癒される音楽であることだけは事実です。
それまでも、幼少時から霊体験やUFO体験を重ねてきたわたしでしたが、このころ(10代後半)を境に、自分がほかの人たちとは決定的に異なっていることに気づきはじめることになりました。
ここに来られているみなさんの多くも、わたしと同様の体験をされて、(さきにみたベートーヴェンの事例のように)だれにも打ち明けることが難しい状況を克服してこられたのではないかと推測しています。宇宙人や動植物と交信できるなどと打ち明けたら最後、それこそ精神に問題ありとされ、一生施設に監禁されかねないという、進化した宇宙の星々における常識に照らせば「おそるべき異常な文明」にあたるのが、現在わたしたちが暮らしている3次元の地球なのです。
みなさんは、正気を失わずにこの地球に生き、さらには当記事をここまで読み進めてこられただけでも、「正常極まりない人間」の証しです。その点は自信を持っていただいてかまわないと思います。宇宙から見たら異常であるはずの者こそが正常な人間として認められて出世の階段を昇っていき、われわれの命運を掌握せんとする、とんでもない星に籍を置いていたものだと、あとから回想することになるでしょう。
ですから、みなさんも、周囲の人に対して、自分がスターシードかもしれないと打ち明けるのは、慎重にしてほしいと思います。たとえ信頼できると思った相手でも、打ち明けたが最後、あなたを変人とみなして、離れていくでしょうから。
さて、そんな当時(18歳)のわたしも同年代の人々の例にもれず、「入試を通過してその後、ふつうに学校を出て、ふつうに就職し、ふつうに異性と恋に落ち、ふつうに結婚生活を送り、ふつうに老後を迎えるだろう・・・」と、若いころにだれでも思い描くような平凡な夢を、持っておりました。
さらにもっと若いころは、伝統武術である「剣道」に打ち込み、小学時代(小6)および中学時代(中3)には、ともに全国大会で上位入賞しました。
それにしても、青少年の剣士たちにとって聖地といえる日本武道館で、小中とも試合ができたのは幸せでした。
しかし、あの昭和の熱狂は、いまや遠い過去の記憶となりました。もちろん、アセンション移行期にあたる現在、ふたたび武術に取り組む気持ちは皆無ですし、5次元に移れば、競争もなく平和で豊かさを謳歌できますので、わたしがかつてのように剣(=竹刀)を持つことは、二度とないでしょう。
また、そのころには友人もふつうにおり、学校のほうも途中までは順調でした。
しかしそれが、思いもよらぬ特殊な能力の発現によって紆余曲折の連続となって、さらに(世界征服レベルでの)闇の勢力の存在を若き日にはっきりと知ってしまい、「ふつうの人生」から脱却した形となり、(その後、それを隠して、しばらく《数十年以上》人間として、ある職場に勤務していましたけれども)現在、このようなサイトで、ひとり惑星地球アセンションの最後の呼びかけを行なっているところです。
まさか、このような驚愕の展開になろうとは・・・人生、どこで何が起きるか、知れたものではないと痛感するしだいです。
詳細は、ここでは明かしませんけれども、おたがい、何を言わんとしているかは暗黙のうちに理解されると思います。わたしたちのようなスターシードにとっては、この地球という名の惑星で生きるのは、まさに死の試練といえるのかもしれません。
現在(西暦2024年3月時点)も、10代後半だった当時と変わらぬ身長、体重で、髪の量も色もまだ変わっておりませんけれども、いちばん変わったのは、その世界観と、生涯の目標でした。同じ人間でも、数十年経てば、外見はそれほど変化していなくても、中身はガラリと変わるケースも一部にあるというのは、自身の体験から断言できます。
しかし、「外見だけでなく、中身も若いときと変わっていない」という人は、たとえ本人がそれを自慢げに語ったとしても、アセンションを知る第三者の目には、悲惨な事例に映るかもしれません。これだけ闇の悪業があぶり出され、光の情報も出回っているのに(ニセ情報もあり玉石混交ではあるが)、まだ数十年前の「若い気持ち」のままでいることを誇って、新しい時代の到来の予兆を察知していないとは・・・何を信じるかについては完全に個人の自由ですから批判するつもりはなくても、やはり、自分はそうはならなくてよかったと、つくづく感じるものです。
このように、いろいろと思うところはあるのですが、現在、アセンションを目前にして、こうした活動をとおして、みなさんや自然界の生き物たちと波動上昇に取り組んでいる自分こそが、もしかしたら地球に転生してくる前の青写真どおりに進行している理想形であり、予定調和なのかもしれない、これでよかったのだ、と最近では無理なく考えられるように変わってきてもいます。
そのためなのか、アセンションを知らなかったそのとき(10代)に戻るのは絶対にいやです(戻りようがありませんけれども、戻りたいとすら思わないという意味です)。
いまは、もう先に進む道しか見えていません。みなさんも、いまからアセンションや世の陰謀を知る以前に戻りたいとは願わないでしょう(たとえ、みかけだけは幸福な時代だったかのように装飾されて回想されるときがあったとしても)。それと同じ気持ちです。
しかしながら、そんな時期から、モーツァルトの『ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K.466』を聴いていたものですから、わたしの心に去来するものは想像を絶するほど深いものがあります。
さて、みなさんは、どの音楽が、心地よく響いたでしょうか。
音楽はいつも、人のそばに寄り添い、人生を深く豊穣にしてくれる魔法のような力を宿しています。クラシック音楽作品に接することで、アセンションまでの日々を無為に過ごすことなく、むしろいっそう丁寧に3次元と向き合ってみようという前向きな気持ちを見つけられるように祈っています。
そして、楽園追放以来、波動が低落したままの人類に、愛を送り込み、楽園復帰を実現するためにも、ますますクラシック音楽を中心に、美しい音楽を聴く価値は高まっていくものと思われます。
しかし、わたしたちが今回めざしているのは、たんなる3次元の平和な状態に戻ることではなく、次元が上がって5次元に移行するということですから、これに心躍らないはずがありません。宗教では「蛇」として現れて、当時はまだ純粋だった人類に悪(の魅力)を吹き込むために誘惑してくる存在とは、爬虫類の蛇ではなくて現実にはアヌンナキやレプティリアンなどの爬虫類型エイリアンだったのですが(いまだにその重大な事実を社会通念では秘匿していますけれども)、闇の誘惑に負けた人類の祖先のカルマ解消のためにも、わたしたちは波動を高めて、素晴らしい世界を現出させていこうではありませんか!!
希望に満ちた音楽とともに、わたしたちはまもなく高みに到達するでしょう。
サイト名 : 一人を生きる -希望の彼方に-