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【鳥を愛する作曲家の心には、翼が生えている 2】 鳥を愛したドヴォルザークの音楽から、人生への思いを深める

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【鳥を愛する作曲家の心には、翼が生えている 2】 鳥を愛したドヴォルザークの音楽から、人生への思いを深める

 

 

 

 

 

 

 

 きょうは、音楽の話題です。

 

 

 それも、自然を愛する方にふさわしい、鳥にかんする楽曲を扱います。

 

 

 UFOやアセンションの話題も大事ですが、必要なときに、情報が降りてくるでしょうから、やたらとオカルト情報ばかりを集めるより、テーマ自体を自然回帰させてみるのも、じっくりと、わたしたちの内面の周波数レベルを高める結果につながります。

 

 

 さて、きょうのタイトルを、

 

 

ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 作品88

 

 

と表記すると、なにやら、いかめしい感じがするので、

 

 

鳥を愛したドヴォルザークの音楽から、人生への思いを深める

 

 

という記事タイトルにしてみました!

 

 

 

 あの「新世界」交響曲で有名な、チェコを代表する作曲家、ドヴォルザーク(1841-1904)。

 

 

 特に、今回ご紹介する交響曲第8番のあとにくる、交響曲第9番『新世界』の第2楽章が、『家路』、『遠き山に日は落ちて』というような邦題が付けられ、学校時代に唱歌のように歌われていましたので、特に昭和生まれの方であれば、ご存じの方も多いと思われます。

 

 その事実から、小学校でも歌われるメロディーというわけで、じつに親しみやすいのが、ドヴォルザークの音楽の特徴でもあります。

 

 

 

 なんとそのドヴォルザークが、鳥たちのための交響曲を作曲していたとは、驚きです!!

 

 

 

 

 

鳥のための音楽を書いている

 

 交響曲第8番を書いていた頃のドヴォルザークは、周囲に、

 

「わたしは、いま、鳥のための音楽を書いているところです。」

 

と語っていました。

 

 

 

 しかし、具体的に、どこがどのように、「鳥」を表しているのか?

 

 

 その点については、はっきりとは語らずじまいに終わったのでした。

 

 

 

 つまり、この交響曲第8番は、

 

「標題音楽」

 

のように思えるが、そうではなくて、

 

 

 

「純器楽を用いた音楽」=「純粋音楽」

 

であった、

 

 

ということになります。

 

 

 

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(写真 = 春の陽ざしに、メジロ。日本の春の光景は、いとも美しい。)
 

 

 

 

標題音楽の代表格といえば

 

 

 「標題音楽」の代表格といえば、だれもが一度は聴きたくなる情熱的な気分の、

 

「幻想交響曲」

 

ではないでしょうか?

 

 

 もちろん、フランスの作曲家、ベルリオーズ(1803-1869)が作曲した作品になります。

 

 

 

 よく引用されているように、

 

『ある女性に失恋した芸術家の男が、毒物を服用するが、死にきれなかったため悪夢にうなされる。その悪夢の中で、恋人を殺す。彼は(夢の中で)殺人罪で断頭台で公開処刑されたのち、悪霊の仲間入りを果たし、妖怪たちの宴に招待され、狂おしく踊る。』

 

というストーリーをもつ交響曲です。

 

 

 

 このような構想は、19世紀に、非常に流行しました。現代の私たちからすると、いくらか不健康なロマンかぶれのように感じられても、当時のヨーロッパでは、たいへんもてはやされました。

 

 もはやルネサンス期の人間解放の空気は淀み、宗教(キリスト教)も信じ切れず、隣国との紛争は日常茶飯事、井戸水を介した致死性の伝染病が流行するなど、19世紀の人々は、そのようなロマンにかぶれたかに思える文化に心の逃避所を求めたのでしょう。

 

 

 しかし、たしかに、こんにちを生きるわれわれにも、多少なりとも共感できる側面があるでしょう。そのためか、音楽市場では、ときおり、『供給過剰』といわれるほど、頻繁に演奏曲目として取り上げられてきました(さすがに、『幻想交響曲』における主人公のように、毒物を服用するほどの恋に落ちる人は、現代人では滅多にいないでしょうが・・・)。

 

 

 演奏会場の運営側にあってはお客さんの入り具合、そしてレコード会社においてはCD等の売れ行きを考えれば、当然の成り行きでした。

 

 

 

 

 

この『幻想交響曲』を書いたベルリオーズは、モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』について、けがらわしい描写が多いとして、批判してきました。

 

 たしかに、前半の、悪徳貴族ドン・ジョヴァンニが、女性を口説くシーンについては、当てはまると思います。しかし、最後に主人公ドン・ジョヴァンニが、彼が殺害した騎士長の亡霊に地獄に落とされて終わるため、一種のカタルシス(浄化)をおぼえて、観ている側が劇の終幕直後には安堵するように設計されています。

 

 

 それに比べて、ベルリオーズのある女性に失恋した芸術家の男が、毒物を服用するが、死にきれなかったため悪夢にうなされる。その悪夢の中で、恋人を殺す。彼は(夢の中で)殺人罪で断頭台で公開処刑されたのち、悪霊の仲間入りを果たし、妖怪たちの宴に招待され、狂おしく踊る。』という筋書きの標題つき交響曲は、どうでしょう?

 

 こちらのほうが、不気味で後味が悪く、音楽的には素晴らしい点が多々あるとはいえ、いくぶん人間かぶれした病的傾向のシナリオのようにも思えてきますが・・・はたして彼にモーツァルトの歌劇を批判する資格があるのでしょうか。

 

 

 そして、驚くべきは、じっさい、このベルリオーズが『幻想交響曲』を作曲するにあたって、上記筋書きの主人公(=ある女性に失恋した芸術家の男のモデルしたのは、なんと、作曲者ベルリオーズ自身の過去の失恋体験でした。彼自身の20代前半のやるせない恋心をベースにして作ったといいます。

 

 

 たしかに、人間らしいといえばそれまでですが、わざわざそのような世俗にまみれた感情を、芸術に表現して、多くの人たちに分かち合わせるべきでしょうか・・・

 

 

 

 ただし、第2楽章のワルツは、夢の中での恋人殺しの前の場面で、主人公の芸術家が恋人とダンスを踊る場面の音楽とされており、この曲だけは例外的に明るく健康的です。

 

 この第2楽章の冒頭部分は、その昔、某局のFM放送におけるクラシック音楽番組のオープニング曲にも使用されていた時期がありましたので、聴いたことのある方も多いのではないかと思われます。

 

 

 標題音楽は、せっかく音がきれいだったり、迫力ある表現がなされていても、この『幻想交響曲』のように、作曲者が指定したシナリオを思い浮かべながら聴きなさい、と言われているので、聴く側としては、そのたびに、そこに描かれている主人公に感情移入しなければなくなり、せっかくの休日を明るく健康的な気分で過ごそうとした場合、わざわざそのシナリオに自分の感情を合わせて音楽鑑賞するのは、つらいということになりかねない問題を含んでいます。

 

 

 

標題音楽は、聴きにくい

 

 この「標題音楽」の最大の難点は、聴きにくいという点に集約されるでしょう。

 

 

 

 それは、上記の章の終わりで少し触れましたが、たとえば、料理を例に取るとわかりやすいと思います。

 

 

 

 シェフから、

 

「この料理を食べたら、必ず、『ほどよい塩加減で、とてもおいしく、春風に乗った気分になった!!』と、感じてください。」

 

と依頼されたとしましょう。

 

 

 でも、あなたは、実際にその料理を試食してみて、

 

「ちょっと塩味が物足りなくて、おいしいけど、春風というより、南国にいるように思えた。」

 

と、感想を述べるかもしれません。

 

 

 

 つまり、料理の作り手と、いただいた人の意見が食い違うという、ありきたりの事件ですが、これを音楽でいうと、

 

「この始まりは、このように場面を頭に描いて、悲しい気持ちになってください。」

 

と作曲家に言われたに等しいのです。

 

 

 

 よほど上手に作曲されていないかぎり、どうしても、押しつけがましさが残ってしまうわけです。

 

 上記のベルリオーズの作品は、上記のような欠点はあるものの、標題音楽としては数少ない成功例とみてよいでしょう。

 

 

 しかしながら、もしそれが上手く作られていなかった場合では、聴き手にとっては、音楽が流れている時間は拷問に等しいほどの長い時間の拘束を受け、心の自由のありがたさを痛感する羽目に陥ることになります。

 

 

 

 



 

 ヒントだけ出しておき、あとは自由に聴いてください、というのがドヴォルザークの第8交響曲か

 

 

 それに比べて、ドヴォルザークの第8交響曲はというと、こちらは、純粋音楽といえる整然さがあり、「鳥のための音楽」というヒントだけ出しておき、あとは自由に聴いてください、という寛大な姿勢が見られ、好感が持てます。

 

 

 これなら、「この部分では、この情景を思い浮かべてください。」と指定されていないだけ、聴くのが苦でなくなります。「海」でも、「真夏の星空」でも、自由な想像を駆使して聴けるというのは、しあわせな音楽鑑賞の原点ではないでしょうか?

 

 

 そのため、わたしは、歌詞の付いた音楽や、一部の標題音楽は、あまり得意ではありません。個人の好みに依拠する局面ではありますけれども、純粋音楽はやはり、聴く人に裁量を残しているという点で、芸術鑑賞の幅を広げてくれるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

作曲者のイメージは?

 

 

 この交響曲第8番を作曲した当時、作曲者(ドヴォルザーク)は、別荘地にいました。

 

 なので、周囲を雄大な自然に囲まれ、毎日、さまざまな鳥たちが木々を訪れて、美しい鳴き声を響かせてくれていたことでしょう。当時が偲ばれます。

 

 

 西暦1889年、ドヴォルザーク48歳の年に作曲されました。

 

 彼が言う鳥とは、ある1羽の鳥とか、飼われている鳥、絵画で見た鳥などではなく、おそらく自然の中に生き生きと生きて、人間から見れば圧倒的に短いその生涯に、内容の濃い体験を重ね、人知れず土に還っていく、そのような鳥だったと思われます。 

 

 

 そして、われわれに、どのような鳥をイメージするのかについて、いちいち指定しないで、好きに聴く自由を与えてくれました。

 

 さて、あなたの心の中に生きる鳥たちは、どのように飛翔し、どのような美しい歌声を奏でるのでしょうか?

 

 

 その答えは、実際に音楽を聴きながら、感じてみてください。

 

 

 

 

 

鳥の一生を俯瞰する、音によるドラマ

 

 わたしは、この曲を、

 

「鳥の一生を俯瞰する、音によるドラマ」

 

として聴いてきました。

 

 

 第1楽章の冒頭から、フルート、ピッコロ、オーボエなどの、鳥の鳴き声にそっくりな楽器が登場します。

 

 夏に観光地に旅行したさい、旅の途上の山道で、霧の中から鳥の声が聞こえてくる、あの感じがします。

 

 

 しかしながら、その描写方法さえも、わたしの自由な想像力のなせるわざですから、他の方が、まったく違う印象を受けて、ぜんぜんちがう情景を思ってもよいのです!

 

 

 

 ある意味、これは、ドヴォルザークの田園交響曲ともいえるかもしれません。

 

 

 当然、ドヴォルザークがこの音楽を作曲するにあたり、ベートーヴェンの田園交響曲を意識しないではいられなかったでしょう。

 

 

 しかし、生来の性格において、芸術家の中では珍しいタイプの、温和で社交家だったドヴォルザークは、そこで「よし、ベートーヴェンを超えてみせるぞ。」などという気負いはまったくありませんでした。

 

 

 ですから、木管ばかりでなく、あらゆる楽器がとてものびのびと歌い、テンポも快活で、フィナーレまでサクサクと進み、豪快なオーケストラの爆発で、全曲をしめくくります。

 

 

 

ドヴォルザーク:交響曲第8番 ト長調 作品88

 

 

第1楽章:

 低弦の合奏のあと、フルートが霧の中から浮かび出てくるかのような楽句を奏し、ほのかな抒情を湛えながらスタートします。きびきびとした行進曲風の音楽です。

 

 たしかに、鳥たちの小気味よい動作を連想される音楽ではあります。とても朗らかな気分になれる、ドヴォルザークならではの流儀です。

 

 この楽章は、通常のソナタ形式です。

 

 活きのいい第1主題に続いて、木管で出るやや翳りを帯びた第2主題、しかし、それに続いて、結尾の旋律はオーケストラの総奏で力強く歌われ、金管のファンファーレで閉じられます。

 

 展開部を経て、再現部になり、コーダは明るく、豪華絢爛な響きで締めくくられます。

 

 

 

第2楽章:

 チェコの昔日の日々を思わせるような、おだやかな音楽です。チェコに住んできたわけでもなく、旅行したわけでもないのに、あたかも長い間、その地にゆかりがあるかのような印象を持たされて、一種、不思議な感覚に包まれるのも事実です。 

 

 ここにも、やわらかい懐かしさを漂わせています。厚みのある弦楽器のオーケストラに癒されます。

 

 

 鳥に関連しているとすれば、この部分に、鳥の心の優しさや、くつろいだ気分を盛り込んだのでしょうか。

 

 

 形式は、3部形式です。

 

 

 ドヴォルザークの音楽とは、田舎じみているが親切そうな感じの漂う、どこかノスタルジックなメロディーなのです。

 

 

 

第3楽章:

  リズム感はあるものの、感傷的な踊りの音楽。鳥たちにも当然、感情がありますから、ここで悲しみを表現したのかもしれません。この部分の陰影があるために、続く第4楽章の華々しさが引き立ちます。

 

 メヌエットもしくはスケルツォに該当する第3楽章ですが、3部形式とも捉えることができます。

 

 

 

第4楽章:

 トランペットのファンファーレで輝かしく開始されます。

 

 明快かつ覚えやすい親しみある主題を中心に、終始、軽妙洒脱なメロディーがあふれてくる喜びを、どのように言葉で表現すればよいのでしょう?

 

 

 クライマックスの盛り上がりは、自然な喜びが爆発したような音楽となって、絶大です。

 

 

 しかしながら、この第4楽章=フィナーレの雰囲気については、田園的と言うよりは、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』のフィナーレのような印象を受けるかと思います。

 

 最後に、テンポを戻して総奏で華やかにクライマックスを迎えて閉じるところなども、雰囲気的に共通しています。

 

 

 具体的にナポレオンをイメージしたベートーヴェンの交響曲第3番と違って、ここは、さまざまな憶測を許す部分ではあるのですが、やはり、作曲したドヴォルザーク本人が「鳥のための音楽を作曲しています。」と明言している事実からも、特定の英雄像をイメージしたのではなく、偉大な自然のなかに立派に生きる鳥たちの姿、およびそれを見ている作曲者自身(=ドヴォルザーク)の心象を描いてみせたのかと感じられます。

 

 

 

 もちろん、この解釈にしても、わたし個人の独創ではあります。

 

 ほかの、どんな解釈も許されると思います。ですが、記事の冒頭で書いたとおり、この多様な解釈が認められる自由度の高さこそが、「標題音楽」には無い特性で、「純粋音楽」の長所といえるのです。

 

 

 フィナーレは、ソナタ形式と変奏曲形式の混在となっています。

 

 

 一般に、「ソナタ形式」や「三部形式」、「変奏曲」以外の形式で作曲された音楽、つまり「ロンド形式」や、この楽章のように「複数の形式が混在した形式」では、あまり順番を考えないほうが、聴いていて癒されます。

 

 

 作曲家も、聴きながら楽曲構造を分析してもらいたいと思ってはおらず、聴く側としても、知識としては知っておいて、実際に聴く時には、旋律が流れてくる順序に愉しめばよいと思います。

 

 

 この第4楽章=フィナーレは、その典型と言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 また、余談となりますけれども、ベートーヴェンは、ご存じの通り、交響曲第3番『英雄』を、最初は、フランスの将軍ナポレオンを救世主とみなして書き始めました(西暦1803年ごろ)。

 

 ナポレオンこそが、ヨーロッパ全体から悪を排除し、和平に導き、民衆に自由をもたらしてくれる救世主だと信じて・・・

 

 

 ところが、ナポレオンが民衆を救うどころか、以前のものよりさらに悪い権力として、皇帝に就任すると宣言したのをベートーヴェンが知った時点で、すぐさま、彼はナポレオンを救世主ではなく、俗物に過ぎない危険な独裁者とみなし、交響曲第3番を献呈するのを撤回してしまいました。

 

 

 そして、当初は、その交響曲に、【英雄に捧げる】とするべきだった献辞を取り払い、【ある英雄の思い出のために】と書き換えたのでした。(曲自体は、破棄されず、そのまま音楽的な傑作として残っています)

 

 

 救世主と信じた相手が、以前の支配者たちよりもさらにひどい独裁者だったとは、なんともひどい結末です。

 

 

 じっさい、その数年後、ベートーヴェンの予感は的中します。

 

 西暦1809年の春、ベートーヴェンの住んでいたウィーンは、ナポレオンの率いる軍隊から総攻撃を受け、陥落寸前まで行きます(陥落はしませんでした)。

 

 かつて英雄と見なした相手が、自国、それも自分の居住地区に軍隊を率いて総攻撃を仕掛けてきたことを知ったときの彼自身の幻滅は、如何ばかりか・・・

 

 

 さらにその後、彼は難聴や、病気などを抱え、42歳での失恋を最後に、結婚を諦め、独身で生涯を閉じていきます(享年57歳)。

 

 

 しかし、ベートーヴェンは、人生に敗れ去って悲しげに退場していったのではありません。

 

 死の数年前には、『第9交響曲』を発表し、音楽界のみならず、のちの全人類の心を揺さぶってやまない不滅の作品を完成させていたのでした。

 

 

 彼は、一個の人間以上の生を十分に生き切ったとも言えるでしょう。

 

 

 ベートーヴェンは、つらい局面にあったとき、しばしば田園地帯に散策をするために出かけていました。あるとき、「自然が唯一の友である」と彼は言いました。ドヴォルザークもベートーヴェンも、自然から霊感を感じとり、創作活動ばかりでなく、人生そのものに自然が欠かせないものであると、無自覚のうちに捉えていたのです。

 

 

 不羈独立をモットーとしていたベートーヴェンらしいエピソードは、こんにちでさえ、その輝きを失ってはいません。また、未来においても、そうあり続けることは、ほぼ間違いないでしょう。

 

 

 われわれも、日々、政治や紛争、病気など、さまざまな幻滅を味わいますけれども、このベートーヴェンとナポレオンのエピソードを胸に秘め、最後には彼の傑作『第9交響曲』のように歓喜の頂点にいることを切に願います。

 

 

 

 

 

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 ニューヨークから、故郷チェコを想って書き上げた、交響曲第9番『新世界』における第2楽章が、童謡『家路』、『遠き山に日は落ちて』として学校で習う曲の作曲者、ドヴォルザーク・・・

 

 だれでも、一度はどこかで聴いたり、そうとは知らずに歌ったことのある名曲ですね? よく、閉店間際の店舗で、「蛍の光」とならんで、耳にする機会の多い旋律でしょう。

 

 

 その作曲者である世界的な音楽家、アントン・ドヴォルザークが、なんと、わたしたち日本人と同じ重大な共通点 = 鳥たちを愛する、花鳥風月を愛でる = という秘密のつながりを持っていたとは!

 

 

 交響曲第8番を聴けば、それが如実にわかるでしょう。

 

 

 

 時空を超えた、新鮮な感動ですね?

 

 

 

 ドヴォルザークはまた、音楽家として、イギリスなど世界各国から賞賛を得た晩年になってから、もともと好きだったというハト(鳩)のためのすみかとなる建造物を建てたことでも知られています。

 

 

 自然豊かなチェコで、あるいは避暑地も同じく緑に囲まれた風光明媚な別荘などで過ごすうちに、動植物に対して愛着が湧いてきたのでしょうか。

 

 そんな動植物好きのドヴォルザークの書いた交響曲第8番は、ほんとうに爽快な曲です。

 

 

 

オススメ

 

 チェコの指揮者は偉大な方が多いですが、やはり、ヴァーツラフ・ノイマンの盤が素晴らしいです。

 

 

 

 

 これは、指揮者やオーケストラの力量は申し分なく、熱気に満ちた感動作です。

 

 

 けれども、特筆すべきなのは、録音状態についてです。

 

 このような心地のよい、ほどよい残響音は、近年の演奏では、聴けなくなってしまいました。はじめて聴く方は、きっと1970年代の録音だと、気づかないと思います。

 

 そのぐらい、音が生きている、といったフレッシュ感があり、みずみずしく色褪せない喜びが込められているのがわかるでしょう。

 

 

 

 

 また、近年では、レコードは言うまでもなく、CDという媒体も廃れてきています。その場合は、「Amazonプライムミュージック」に入会し、聴き放題を利用して聴くことをおすすめします。

 

 西暦2022年時点では、このAmazonプライムミュージック内では、ラファエル・クーベリックという20世紀を代表する指揮者の演奏ばかりが並んでいる感じがします(ジャケットが違うだけで、同じ録音)。

 

 音のメリハリをつけてくる分、少し個性が強すぎる演奏だと感じる方もいるでしょうから、そのときは、ほかのソフトだと感じられる演奏をみつけて、聴いてみてください。

 

 

★ヴィヴァルディの鳥のための協奏曲★

 

 

 

 

自然を愛する心は、アセンションに通じる

 

 

 それは、日本に暮らすわたしたちが、日頃、見慣れてはいるけれど、しかし、彼らの胸中がいかなるものかまでは、なかなか思い至らない、そういった鳥たちの心の冒険=生涯という期間=を、流麗な音楽に乗って、わずか30分程度で会得できる機会に恵まれると言い換えることも可能でしょう。

 

 

 

ひじょうに喜ばしく、快活で、優しい。

 

 

音楽を聴くだけで、鳥などの動物の持つ自然界の波動とシンクロして、5次元移行の準備ができる。

 

 

 

 音楽から他の生命を思いやるという視点は、なにもドヴォルザークに限ったことではありません。

 

 

 人間とは姿形の異なる生き物たちの心理に思いをはせながら音楽に耳を傾けるとき、わたしたちは人生を何倍にも満喫したことになるのではないでしょうか。

 

 

 そして、そのあかつきには、地球も生まれ変わり、よそおいも新たに、5次元へと上昇を遂げているにちがいありません・・・

 

 

 自然を愛する心は、おのずと、アセンションに通じる道を切り拓いてくれます。切り拓くと言っても、悪戦苦闘の末に切り拓くのではなくて、音楽を通して自然を賛美する気持ちが強くなっていく結果として、自身の進む道が、はっきりと示されるという具合です。

 

 

 アセンションは、そうして、静かに進行していくのです。

 

 たとえ世の中は騒然としていても、です。

 

 わたしたちが長い間刷り込まれてきた世間の様相を受けてようやく動き出す習慣から、自身の内的現実の声にしたがって行く道を自身に示す習慣に乗り換える機会が来ています。

 

 

★鳥が語る、東洋の思想★

 

 

 

 

 

 

★今回は、鳥にかんする音楽の第2弾をお送りしました。

 

 自然を理解しようとする好奇心は、次から次へと謎を呼び、わたしたちを神秘の国に誘ってくれます。その気になれば、この世には、知らないことがいっぱいです。加齢を理由にして、探究をやめてしまうと、神秘の国への扉は閉ざされ、波動も停滞します。

 

 

 そんなときに、鳥を愛する人たちが作った音楽は、未知の世界を共有させてくれるでしょう。

 

 じっさい、自然に対して心を開く態度によって、ますます自然界や宇宙からのエネルギーを受け取りやすくなっていきます。

 

 

 アセンションは、知識として理解しても、始まりません。もし、知識として知っているだけで次元上昇できるのであれば、闇の勢力でもアセンションできることになってしまうでしょう。これは、おかしな話です。

 

 

 アセンション波動を獲得するには、実践あるのみです。

 

 しかし、いざ、実践しようとすると、何をすればよいのか、わかりません。

 

 そこで、身近なアセンションの教師といえる、自然界とそこに住む生き物を理解する姿勢からスタートすることにしてみませんか?

 

 

 いくらでも、自然は助けてくれます。人間しか、世の中にいないと思わないことが重要です。もともと、近代から現代の人間の不幸の源泉とは、みずからの存在と自然との連関性を断ち切ったことに由来するからです。そうした考えを広めたのは、闇の勢力です。アセンションの側に行く人間を増やさないためでした。

 

 自然界に友情を感じ、人間社会から受ける敵意や冷たさを緩和しながら、また、社会的な自我を強固にしていく。

 

 このくりかえしで、わたしたちは、波動を上昇させてきました。今後も、これを続けましょう!

 

 

 そのようなわけで、自然を愛する音楽家であったチェコのドヴォルザークの作品をご紹介し、次元上昇までに、みなさんが波動上昇を済ませておく導入部となることを期待して、この記事を閉じようと思います。

 

 

★もちろん、音楽以外にも、直接、自然に親しむことができ、そのほうが簡単と感じるなら、それを優先してください。

 

 

 環境が許すならば、散策もいいでしょう。

 

 夕焼けを眺めたりすると、いっしょに鳥や虫の飛行するさまを愉しめるかもしれません。

 

 ロマンティックに星空を眺めていたら、UFOを目撃することもあるでしょう。

 

 

 また、鉢植えの植物でも室内や庭先に置くだけでも、自然界の精霊たちは喜びます。それは、その人の波動にも好影響をもたらすと言われています。

 

 

 この世は、人間だけの力で成り立ってはいません。それは傲慢な幻想です。もっと、力を抜いて、自然に身を委ねてみてください。そうすると、自然のほうから、あなたにはたらきかけてくる何かを感じるでしょう。

 

 

 

 

★自然界はすべてを知っている★

 

 

 

 

 

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