一人を生きる -希望の彼方に-

スピリチュアルな観点から、一人をどう生きるかを語るブログです。

【思想】ジャン・ジャック・ルソーの生涯から、現代のブログの意義を考える

 

 

ジャン・ジャック・ルソーの生涯から、ブログの意義を考える

 

 「自然に帰れ」という思想で知られるジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は、王侯貴族の保護を受けた御用学者だったのでしょうか。

 

 ホッブズは「万人の万人に対する闘い」と語り、ルソーは「自然に帰れ」と叫んだ・・・と学校で教わったことがあるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

「自然に帰れ」の宣言者の実像

 

 スイスのジュネーブに生まれ、おもにフランスで活躍したジャン・ジャック・ルソーは、あたかも、全世界の民衆に対して、声高らかにおのれの中核思想を宣言したように思われているかもしれません。

 

 しかし、本来、ひとりの人間の生涯を、たったひと言の言葉で言い表せるはずもありません。

 

 実際の彼の生涯とはどのようなものだったのでしょうか?

 

 彼ルソーには悲惨がつきまとい、若き日にサロンでまのあたりにした短い栄耀栄華の夢と、子ども時代に読んだプルタルコスの英雄列伝の影響がないまぜになって、人格形成が行われます。

 

 ルソーは、近代告白文学の代表格とされることもありますが、これは彼が望んだことでも、目論んだことでもありませんでした。

 

 彼は、そのようなものを書きたくはなかったのだけれども、図らずも、書かざるを得ない境遇に追い込まれたのでした。

 

 現在では、だれでもブログを書くことができる時代になっていますが、それまでは、民衆はそのような意見を披瀝する手段を持ちませんでした。

 

 

 

 たいていの場合、著作というものは、時の為政者の寵愛を受けて、出版という形で、社会の権力機構を維持していくのに差し障りのない作品がヒット作とされ、後世に受け継がれていくものです。

 

 しかし、人類の営んできた歴史を振り返ると、時の為政者の意に反すると見なされた著作は、検閲で出版前に差し止められるか、出版後に焚書にされ最初から無かったことにされる運命にあるのが通例でした。

 

 それを証明するかのように、彼は、みずからの著作が原稿の段階で焚書にされたり、出版後に好敵手に改ざんされてしまわないか、つねに行き過ぎた心配をしていました(現実には、そこまで追っ手が迫っているわけではなかったとも伝えられています)。

 

 最晩年の彼は迫害から逃れようと必死にもがき、ノートルダム寺院の祭壇に著作の原稿を捧げようとするなどの行動に出ます。

 

 

 

 

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ブログの先駆けか

 

 

 そのように、民衆を訓化するためというよりも、みずからの立場を自己弁護しながら思想を語り、最後には、孤独と夢想に安住の場を見出すという、一風変わった思想家として、歴史上に独特の位置を占めることになります。

 

 しかし、皮肉にも、書きたくなかったのに書かざるを得なかったかにみえた晩年の作品が、後世の思想家たちに多大な影響を与えることになるのでした。

 

 見方によっては、ブログの先駆者のような存在として位置づけるという、面白い解釈もできなくはないでしょう。

 

 ただ、現代と彼の違いは、それこそ彼本人にしてみれ全生涯をかけての労作であるという点です。

 

 わたしたちがブログで面白い記事を紹介したり、ホームページで物販するのとは、命がけかどうかという点で、違うというのです。

 

 

 しかし、本質においては、根源は同じかもしれません。

 

 彼ルソーの場合、最晩年には、追い詰められていて、気持ちに余裕がなかったのでしょう。

 

 わたしは、どの記事を仕上げるのにもつねに全身全霊を傾けています。

 

 

 両者に共通している点は、本気で書きたいこと、伝えたいことを書き残そうとしているところでしょうか。

 

 

 このように、 彼の悲劇は、現代のブログと比して考えさせられるところがあります。

 

 

 

 

彼の生涯を概観する

 

 フランスを代表する思想家の一人、ジャン・ジャック・ルソーのデビューは比較的遅く、38歳でデビューしました。

 

 が、ほどなく、フランス文壇の主流派の重鎮たちと対立していきます。

 

 1750年、ルソーはディジョンのアカデミーの懸賞課題に応募して、みごと第1位の最優秀賞を獲得した『学問芸術論』により、颯爽とデビューを飾ったかに見えました。

 

 この作品の中では、【人為を排し、徳を追求する素直な境地こそが真に人間を幸福にする】と結論づけ、さらには華美な学術はかえって人間の心や都会の流行を堕落させるものだ】と指摘しています。

 

 

 

 1754年(42歳)、ルソーは『人間不平等起源論』を書き、『学問芸術論』をさらに推し進めて、古代にあったであろう原始状態の人間の心理に、徳の原型をさぐる、という方向を明確にしました。

 

 これは、当時のヨーロッパで絶大な影響を誇った百科全書派の学者や文士たちの論調と正反対な方角を向いており、この主流派とルソーとの反りが合わなくなるのは時間の問題でした。

 

 ヴォルテールやディドロ、グリムらにとって18世紀のヨーロッパは、【民衆を学問や理性によって啓蒙する時代】であり、無知による暗闇を理性の光によって照らし出す使命感を持って文筆活動を行っていました。

 

 それが当世風で流行の最先端であった時代に、ルソーは【その学問の装飾や気取りこそが、文明を衰退させ、人々を不幸にする】という、真っ向から反対の論調の主張を続けたのでした。

 

 現代のわたしたちからみると、ルソーの主張は、21世紀の今日的な時流さえも言い当てていて、まさに先見の明とも言えます。

 

 

 

 が、当時のフランスの学術界の主流派からしてみれば、ルソーが反旗を翻す反逆者のように映ったのは仕方のないことでした。

 

 もちろん、ルソーには、そのような反逆者の気質はもともとなく、ただ、幼少時に読みふけった古代スパルタの書籍に影響を受けて理想化しすぎた彼自身の心象風景を、彼の作品の中で表現したに過ぎませんでした。

 

 しかし、文壇やアカデミーには、世渡りが下手、正直者という程度のことでは済まされず、彼に対する追っ手は、迫っていました。

 

 

 

 1762年には、『エミール』の出版により、彼の運命は決定的になりました。

 

 この中で、ルソーの教育論が展開され、さらには、宗教界にも意義を提出するような意見も含まれており、当時の医学や教会権力が、既存の権力基盤を支える理論を覆し、ゆくゆくは民衆を目覚めさせる危険があるとみなし、ルソーの著作の影響力が拡大していくことをおそれるようになります。

 

 このようにして、同年(1762年)、ルソーは医学界、宗教界、教育界から危険な存在との烙印を押され、活躍していたフランスばかりでなく、愛する故郷スイス・ジュネーブからも市民権剥奪の憂き目にあい、追放と逃亡の生活を余儀なくされてしまいます。

 

 ルソーは、皮肉にも、後世の教科書の表現を借りれば、別の意味合いで“自然に帰る”ことになるのでした。

 

 

 

 

 ルソーの定義する、【原初にあった幸福な、素朴な人間像】と同じように、彼はひとり、存在することになりました。

 

 

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 自然のなかに逃避し、植物の研究を始め、そして幼少時代の記憶に浸り、そこに余生の幸福を見つけようと必死になります。

 

 ところが、ルソーには敵が多く(註:現代のスピリチュアルでいうところの悪霊たちが、王侯貴族の背後で策動していたと思われます。しかし、当時の人たちはそれを知る由もなかった、というのが事実だったのでしょう)、海外にまで逃亡と流浪の生活を繰り返します。

 

 

 

 1766年(54歳)には、イギリスの哲学者ヒュームが、フランスから逃避してイギリスに渡るように促し、ルソーはそれに従うのでした。

 

 ところが、イギリスに行ってもルソーは幻滅を感じます。

 

 さらには、ルソーは、イギリス渡航を勧めた哲学者ヒュームが信頼のおける友人などではなく、ルソーにことあるごとに対立してきたヴォルテールらとつるんでいるのではないかとの疑念を持つようになってしまいます。

 

 まもなく、優柔不断なルソーも、ヒュームと決別しフランスに帰る決心をつけることになるのでした。

 

 

 

 フランスに戻ってからも、ルソーを取り巻く状況は一向に改善されることなく、1770年(58歳)には、これまでの人生を総括するように、貴族の館で『告白録』を発表し、みずからの潔白を表明しようとします。

 

 ところが、当局側にルソーの朗読会の禁止を求める署名が貴族から出されてしまいます。

 

 その後、相次ぐ攻撃に嫌気がさし、『ルソー、ジャンジャックをさばく(対話)』などを書きます。

 

 こうした状況の中(1776年ごろ)、周囲にだれも信頼できる人間がいないことを嘆いたルソーは、『いまだ正義と真実を愛するフランス人へ』と題して、さきの『告白録』の縮小版のようなビラを作成します。

 

 そして、身に覚えのない悪評が流布していることに抗議するために、パリの街頭で通行人に手当たりしだいにそのビラを配布するという行動に出るのでした。

 

 同年(1776年)、年齢も60代なかばにさしかかり、疲労感を隠せなくなってきたルソーは、やがて死を意識するようになりました。

 

 そんななか、『孤独な散歩者の夢想』という、吉田兼好の『徒然草』や、鴨長明『方丈記』のような書き出しの小品に着手しました。

 

 その内容は、彼の生涯の回想録と、美しい心象風景の絵画のような作品でした。すでに若き日の血気は衰え、よい意味でその文体からは諦念が感じられます。

 

 彼自身が作品のなかで語っているように、世間や他者に理解を求めることを放棄しているかに見えます。

 

 が、皮肉にも彼の予想は的中し、『夢想』も死によって断筆してしまう運命にありました。結局、この作品が未完成のままルソーの遺作となりました。

 

 

 遅ればせながらの華々しい文壇デビュー(38歳)、主流派との対立に始まる追放と逃亡の日々(50歳~)、そして、晩年(59歳~)は自然に隠れるように生き、植物の採取と研究に没頭したジャン・ジャック・ルソーは、1778年7月2日、静かに息を引き取り、激動の66年の生涯を終えたのでした。

 

 

 

 ルソーは一貫して、原初の素朴な人間の心理に、徳の原型を見出しました。

 

 そして、古代スパルタの人間がもつ、健全な祖国愛と、戦士的な勇敢さを讃えています。

 

 この、ルソー自身が生きたことのない遠い過去に思いをめぐらせて、夢想からたどっていき、そこにみずからの生きた時代、つまり18世紀のフランスに必要な思想を打ち立てるという、あきらかに哲学者とはちがう方法を用いて、真実を求めるという人物でした。

 

 

 

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東洋と相通じるものがある 

 

 鴨長明が記した『方丈記』のような、どこか東洋的な感受性がルソーにもあり、諸行無常的な諦観のような悟りが全編に漂います。

 

 東洋と相通じるものがある点は、誰もが認めるところでしょう。

 それは、西洋科学や哲学とは一線を画しているからです。

 

 よく言われるのが、【ルソーは哲学者ではなかった。詩人の要素を持つ、印象派的な思想家だった。】というものです。

 

 西洋科学は、理論ですべての現象を説明できると仮定します。それが不可能なときは、仮説を打ち立てます。

 

 それに比べてルソーの場合は、理論よりも直観や感受性から入り、感覚的に思考を展開していきます。

 

 その西洋社会においては異質ともいえる思考システムのおかげで、ルソーは当時の学術界から異端児扱いを受けてしまいます。

 

 これは、左脳=理論ではなく、右脳=直観としたときに、西洋科学は左脳で、ルソーは右脳中心だったといえるのではないでしょうか。

 

 おそらく、そのような点が、ときにルソーが東洋的といわれ、また、わたしたち日本人が彼に親近感をもつことのできるゆえんなのでしょう。

 

 

 また、ときとして、鴨長明を西行と比較して、敗残者のように言われることも度々目にします。

 

 でも、そのような比較は意味をなさないのは明白です。

 

 恵まれた条件下で成功するのはたやすいことです。

 

 しかし、時代を超えて苦悩する自我、呻吟(しんぎん)する魂のありさまを告白したゆえに、のちに生きることになる人々を勇気づけることが可能になるのです。

 

 

 この場合、どちらに価値があるかなどという議論が意味をなさないのは明白です。

 

 

 

 

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ルソー略年表

 

ルソー略年表
 
 
◆◆
 
1712年(0歳)
 スイスのジュネーブに生まれる。父は、時計職人。
 母はジャン・ジャックが出生後9日目に体調悪化し、他界した。
 
◎自分の出生とともに、命を引き換えにした母に申し訳ないとの悔悟の念が、終生つきまといました。もちろん、ルソー本人に責はないのですが、彼の人格形成に甚大な影響を残したのは事実です。
 
 
1725年(13歳)
 彫刻師のもとに、弟子入りする。
 
 
1729年(17歳)
 神学校に入る。
 
 
1730年(18歳)
 スイス・ローザンヌで、初めての音楽会をひらく。
 
 
1731年(19歳)
 スイス・サヴォワにある測地局に入る。
 
 
1732年(20歳)
 測地局を退職し、音楽関係の仕事を始める。
 
 ◎最初から、思想家という職業に就いていたわけではありません。現在の日本のフリーターのように、ルソーも職を転々と変えていたのでした。
 
 
1746年(34歳)
 結婚する。しかし以後誕生した子ども6人をみな孤児院に送る。
 
◎出生時の母の一件にまつわるトラウマからか、結婚後も愛情ある家庭を築けず、離婚はしませんでしたが、妻は家政婦のように扱われ、さらには、次々と生まれてくる子どもの育児をすべて放棄して、6人とも孤児院に送ります。
 
 
1750年(38歳)
 アカデミー懸賞に応募した作品『学問芸術論』が、第1位に輝く。
 
 
1751年(39歳)
 おもに、楽譜を写す仕事で生計を立てる。
 
 
1754年(42歳)
 『人間不平等起原論』を完成する。
 
 
1762年(50歳)
 子どもの教育方法を採り上げた『エミール』を出版する。
 しかし、そこに現れる思想が支配層にとって危険と見なされ、逮捕状が出される。
 逃亡する。
 
 
1766年(54歳)
 活躍の場だったフランスを去り、イギリスに逃避する。
 
 ◎1750年から1762年、38歳から50歳にかけてが、彼の活動期でした。全盛期が過ぎると、迫害と孤独のうちに、救いを見出そうと躍起になっていきます。
 
 
1767年(55歳)
 イギリスに失望し、フランスに戻る。
 
 
1770年(58歳)
 自己弁護の書といえる『告白録』を完成させる。
 このころから、植物採集に打ち込む。生活も孤独になっていく。
 
 
1778年(66歳)
 7月2日、『孤独な散歩者の夢想』執筆中に死去。
 
 
 

 

 

同時代人との比較

 

◆ルソーと同業者たち◆

 

 同じ文脈にルソーを置くと、百科全書派の社会的名声を一身に受けていたダランベールやヴォルテールと比較して、ルソーの作品には敗残の香りがするので価値がない、と言うことが果たしてできるのでしょうか。

 

 彼は力の限り生きて、内面を吐露し、それを作品として仕上げました。後年のそれらは、作品というよりも、なかば自己弁護の域に踏み込んでいたともいえます。

 

 が、しかし、それはそうとして、やはり、当代一流の思想家が、このように内情を吐露することにこそ、価値が認められるでしょう。

 

 たとえばヴォルテールなどは、その著作『哲学書簡』において、イギリスでの政治社会の在り方を祖国フランスに紹介するさいに、意図的なまちがいをおかして、読者に誤解を与えるような面も指摘されています。

 

 世論誘導のために、検証不能な庶民を相手に、自分や時に為政者に好都合なように情報を操作していたふしがありました。

 

 当時はフランス国民にばれませんでしたが(もしばれて指摘を受けても、翻訳を間違ったとでも言い訳するつもりだったのでしょう)、今日ではすぐにわかってしまうような虚偽の情報を盛り込むこともできました。

 

 当時の民衆を心理的に都合よく操作するために書かれた政治論などは、史実を明らかにする資料としては大いに有効だったとしても、現代のわたしたちには、そのからくりがばれているので、心の琴線に触れずに、素通りしていく感が否めません。

 

 もともと、時代を超えて伝えたいと願って書かれたわけではない作品は、いつも忘却の彼方に葬られる運命にあります。

 

 

 これに比べるとルソーは、ヴォルテールらのような世渡りの術には欠けていましたが、ある意味、その欠点ゆえに真に人間的であったといえるでしょう。

 

 時間と空間をおいてもなお、人間として共感を得られる点があればそれが何を意味するのかを注意深く探求する者にとっては、ルソーのことばは、けっして時代が経過しても忘れ去られることなく、普遍性を見出す宝庫となってくれます。

 

 

 

 

現代のブログの意義

 

 現代、インターネット上にひしめくあまたのブログにも、大まかに分けて、次のようなジャンルが存在しています。中でも、個人によるブログと、メーカーなどの物販ブログが代表的です。

 

 

◆「個人ブログ」

 

 

◆「物販ブログ(ホームページ)」

 

 

 「個人ブログ」ではかぎりなく一方通行のものや、親切なガイドになっているものまで、幅広く存在しているのは周知のとおりです。

 

 

 また、「物販ブログ(ホームページ)」のほうも、法人企業がオウンドメディアとして、自社製品を宣伝するブログやホームページも近年増加傾向にあります。

 

 

 

 そんな時代にあって、ブログが生涯をかけた告白の場になっている事例も、たとえば闘病中の方のブログなどに見受けられるでしょう。

 

 ルソーが彼の著作の中でよく引用するフランスの思想家・モンテーニュ(1533~1592)も、専門の学者や作家ではありませんでした。

 

 素人として『エセー(随想録)』を出版し、本人の意思とは無関係に、中世を代表する文学の一頂点を築く結果を生み出すことになったのでした。

 

 ルソーの後年の作品は、東洋でいうと鴨長明のような印象を受けますが、西洋でいえば、ルソーは明らかにモンテーニュを模範としているのが随所で分かります。

 

 モンテーニュは自著の中で、つぎのように高らかに宣言しました。

 

『わたしは、文筆の専門家ではないが、モンテーニュという人間として、自分という存在のすべてを伝える最初の人間である。』

 

 しかし、モンテーニュは、比較的落ち着いて随想録を書くことに集中できたのに対し、ルソーは、学問芸術論でデビューした成功が後年災いして、渾身で反論、弁護、そして諦観にたどり着くのでしたが・・・

 

 フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーが悲劇的な人生とひきかえにその生涯を賭してかちえた境地が、現代を生きるわたしたちのコミュニケーション・ツールの領域において、あらたな地平を拓いた、という見方もできるかもしれません。

 

 それは、作風として、机上でこしらえてものではなくて、彼にとっては不本意ながらも人生の闘争の末に行き着いた結末でした。

 

 

 

 

 ルソーの主張をまとめると、

 

 華美な装飾や気取りを排除した、素朴な境地にこそ、人間は回帰しなければならない。そのようにしてしか、人類も社会も、幸福になれない。

 

 というものになります。

 

 

 それが、手短に要約され、誤解のもととなっている、【自然に帰れ】という表現の本源的な意味だったとみてよいでしょう。

 

 

 

 実質的には、懸賞論文に当選した1750年から『エミール』を書くことで1762年に司法当局から逮捕令状が出されるまでの、わずか12年間が、ジャン・ジャック・ルソーの実働期間とみていいでしょう。

 

 本人が、「わたしは思想家である。」といっていたわけではなかったのです。

 

 後世が、ルソーを思想家の一人と見なしたに過ぎないのが実態なのです。

 

 しかし、ルソーの捉えどころのない文体は詩的でさえあり、過去に美を見出す基本モチーフを出発点として思考を展開するため、どこまでが現実で、どこからが夢想によるものなのか不明瞭な思想が、彼の特徴です。

 

 後世を生きる者にとっては、どんな切り口からも得られるものはあるが、何を得るかは、その探求者の力量しだいという、不思議な魅力を具えています。

 

 

 

 わたしたちは、書くことに関しては、かんたんにインターネットを利用して、ブログという形式で語ることができる、恵まれた時代に生きています。

 

 ルソーの生涯における悲劇は、長い年月を経て浄化され、のちの時代を生きる人類に自己表現の機会を与えてくれることになったのでしょうか。

 

 

 

 学校の教科書に載っている

 

『フランスの思想家であったジャン・ジャック・ルソーは、【自然に帰れ】と語った。』

 

という記載からはおよそ捉えきれない、真実の彼の人生にこそ、感動が秘められているのではないでしょうか。

 

 また、著述家という面ばかりが強調されるルソーも、実は、作曲家という側面を持ち合わせていました。

 

 小学校の音楽の時間に習う「むすんで、ひらいて」というメロディの作者は、このジャン・ジャック・ルソーなのでした。

 

 小さなオペラも作曲しましたし、楽譜を書き写す仕事もしていました。

 

 ルソー自身が語っているように、彼が欠点の多い人間であったにせよ、 つねに真実を追求し、道半ばで倒れたものの、その足跡を後世に残すことによって、18世紀当時のヨーロッパの情勢と思想、そして最も重要な人間の真実をあますところなくわれわれに伝えてくれていることは、賞賛されてしかるべきでしょう。

 

 

 

 

 先人たちの奮闘努力に、感謝を捧げようではありませんか。

 

 

 このブログも、ささやかながら、同時代を生きる人々と、後世を生きることになる未来の人々に希望を送れるようにとの願いを込めつつ、記述していくことを誓い、今回の筆を擱(お)きます。